素数の法則(true short ver.)

 
 僕の「真実は短い言葉で表現できる」と言う信念が炸裂した。

 25以上の素数の自乗はみな24x+1と表現できる。逆に言えば、自乗値がそうならない素数はない。すべての自然数は2乗値を持つ。真実はそれだけである。逆は真ではない。

 これで我々は、想像より遙かに軽い素数生成、素数判定プログラムを作る最低の知恵を手にしたことになる(予め直観的に素数ではないと分かる2と5の倍数および各桁の数字の総和が3の倍数になる数値(それは3の倍数である)および自乗から1を引いて24で割り切れない数値、および24までの素数でない数字だけに限っては「先天的(ア・プリオリ)」に、および素数の自乗など(これも24x+1が成立する数かどうかでそれに引っ掛かった数の√が小さい奇数から大きな奇数(√「素数自乗」まで)で試し割りしたときにその「自然数」以下にもう割り切れない(つまり、どの奇数でも割り切れなかった)自然数であるものを素数とする…このとき、24x+1も、24x、24x±2、24x±3、24x±4、24x±6、24x±8、24x±9、24x±10、24x±12、24x±14、24x±15、24x±16、24x±18、24x±20、24x±21、24x±22、24x±24…なども素数ではないことに注意/なお、24x+1問題の網に引っ掛かった数は上記の方法で素数判定ができるが、そうでない数を)、および以上の倍数はすべて「素数ではない」としてデータベースに格納する…。素数の自乗が判明した数については、その数は素数としてデータベースに格納する(※この方法だと1京くらいまでの素数は苦もなく分かるだろう)。

 素数だと(自乗−1)÷24=自然数、それが素数などを証明する篩だったのである。5以上のある値を自乗して、1引いて24で割り切れない数は、少なくとも素数ではない。
 
 なお、この知恵が筆者オリジナルであることに誰も気付いてはいない。

駄知恵博物館

 
 もともと僕は心理士なのに、永久機関とか無燃料永久発電機とか素数の法則とかの余所事ばかりに手を出しているのがたぶん悪くて、昨年末からいままで閲覧者0行進を続けている。いよいよ僕もヤバくておかしなお爺さんとみんなから認知されているようだ。

 トホホ。

            おまけ 【解説】オルフィレウスの永久機関

t検定と分散分析のロジック

 
 2つの平均値の差の検定にt検定を、3つ以上の平均値の差の検定に分散分析を用いることは、心理屋なら誰でも知っていることである。

 しかし、大学などの高等教育機関では煩瑣な検定の手続きを教わりはするが、なぜそうするのかはなかなか教えてもらえない、と言うのが現状であろう。

 そこで、今回はt検定と分散分析に共通するものの考え方、つまりロジックについてお話させていただきたい。

 平均値が少しの違いでも、分散(データのばらつき)が非常に小さければ、それらの平均値の差が統計的に有意(有効)になり、平均値が大きく隔たっていても分散が非常に大きければ、n.s(not significant 有意ではない)なことがあるように、平均値の差の検定をする場合には、平均値の大きさの差と分散の小ささの2つの要因についての正確な情報が欠かせない。

 (標本数が同じなどで)簡素化されたt検定の式を見ていただくと、それは非常にはっきりする。

 分散分析でもそれは同じことで、手続きを知っているひとから見れば、分散が小さな要因探しが大きなテーマになっていることに気付かないであろうか。

 平均値自体はt検定と同じ扱いになり、要因数の効果を相殺しながら分散の小さな要因探しをするのが分散分析の本質である。そのさいに、平均値のそれとしての強さと平均値の差の強さを規定するのが分散なのである。

 そのように見てくると、t検定も分散分析もあるグループの分散の小ささに注目しているわけである。要するに平均値の差の検定にはそう言うロジックが生きているのである。

素数の法則(旧版)

    
 僕の「真実は短い言葉で表現できる」と言う信念が炸裂しました。

 25以上の素数の自乗はみな24x+1と表現できる。逆に言えば、自乗値がそうならない素数はない。すべての自然数は2乗値を持つ。真実はそれだけである。

 こうなると最早コンピューターもへったくれもない。

(以下旧記述)

 2と5の倍数は直観的に倍数だと分かるので、はじめから素数列から除外されているものとする。

 5以上の任意の素数を3で割った余りの数と、6で割った余りの数の積は、それが素数である限りは必ず1か10しかない。(3で割ったとき、6で割ったとき)の余りの出現(1、1)ないし(2、5)がそうであって、素数の出現規定性そのものの5ないし7の積数(6n±1の最初の素数)、24で割ったときの余りが1であるものは素数の2乗値(と言うことは、連続素数の積も小さい方の素数との素数差を大きい素数と掛け合わせてその数を引くと得られることになる…このすべての素数への拡張などの他の工夫も含めてこれを計算に組み入れると素数の掛け合わせ数列の算出は意外と楽になる…もちろんそれらは素数でない)、および素数の掛け合わせ数列では任意の素数の自乗値を最大としてその√以下の最小素数値(最小は11)から最大素数値まで順々に割ってみて割り切れた数値、それらすべてを除いた数値列が素数列となる。

 取り敢えず、これを「素数の剰余同調仮説」とでも呼んでおきたい。素数には独特の桁のようなものがありそうに見える。そこでの数値の配当構造は、原基的には(6n-1)同士と(6n+1)同士の4間隔および8間隔となっている。

 このようなわけで、この論理を巨大素数自乗値よりずっと小さい数なりわずかに小さい数なり巨大素数自乗値そのもの以下なり(おそらく、ミディアムサイズの数から計算を始めるのが最も能率的)から素数積を探すコンピュータープログラムにすれば、非常に軽い素数生成・素数判別ができるようになる(素数/非素数の確定値は演算ごとにデータベースに格納しておけば二度手間を避けた効率的な計算が可能である…つまり、素数/非素数の確定値は再び算出する煩わしさを逃れられる…素数については最初期値として2から1万個程度を予めデータベースに格納しておくのが望ましい…実用上、1兆程度までの素数が把握できれば良いと考えている)。方略として、どこまでかの連続素数の悉皆積-1あたりから出発して数を2つずつ減らしてゆくなども良いかも知れない。

 素数列のロジック自体は「素数同士の公倍数はすべて欠損値となる」と言うもので、さして複雑なものではない。それゆえ素数自体は値が大きくなるほど減ってゆく。それは上記に述べた通りである。

 そんな風に条件を詰めていけばいずれ完全な解に辿り着くだろう。筆者は野心家ではないので、完璧は期さない。

 参考までに最初の着想も書き留めておく。

 5以上の連続する奇数で、それらをそれぞれ6で割ってそれらの余りの和が6であるようなペアをなすものの少なくとも一方は素数である。

 ここまで考え詰めてもシンプルな結論には勝てなかった。

オルフィレウスの永久機関(Short Ver.)

  永久機関について予備知識のない方はこちらをご覧ください。

 オルフィレウスの永久機関は、複数のシーソー状の丸太の支点が丸太の運動、つまり力の回収が止まらないように釣り合いが取れそうになると支点が逆に移動してイントレランスを産み出す仕掛けだったのだろう。それが「重心が永久に釣り合わない」と言うことの意味だったのだろう。

 まぁ、考えればできないことでもないことはお分かりいただけようかと思う。

軍隊によらない国際秩序の防衛(原版リリース 2022-03-12 14:58:11)

 平和国家としての我が国は、そもそも国際秩序の防衛のために、どのような立ち位置をとるべきなのか?

 答えはそれほど難しくはない。「力による現状変更」を許さないと言う観点から、軍事力ではなく、警察力によって「力による現状変更罪」をひとつの犯罪として立件し、これを犯した者は監獄に放り込めば良い。これは我々のような名もなき百姓衆の末裔の日常の常識と言うべき考えではなかろうか。

 そしてこれは国内外を問わない我が国の国是とすべきである。

 小国が分立する現代には、これは殊の外重要な考え方である。

 そして何よりも、このような政治的立場は、憲法第9条を理念とする我が国には、ことの必然と言うべきだろう。思い出して欲しい、現在の「自衛隊」は発足当初「警察予備隊」であったことを。

 今叫ばれている「国連改革」も、そこを目標に掲げるべきである。

 兵器を消耗して軍需産業を肥やし、犬死にする人間を増やすより、その方が遥かにローコストかつ人道的である。

 要するに、これからの国際秩序は軍事的にではなく刑事的に守られるべきだ、と。

 それは我が国憲法の前文にある「名誉ある地位を占めたいと思う」と言う一節とリンクしている。

 日常の肌感覚(現実認識)から離れたとき、それは平和の終焉と戦の始まりを告げる。あなたとあなたの周囲のひとびとが権力者によってそれを忘れさせられ、騙されることがなければ、そう思っている圏内では超然と平和は守られる。学者か何か知らないが、ひとを虫けらだと思っているから大量殺戮の方法を臆面もなく思い付き披露するのである。この手の手合いには要注意せねばならない。

 一考に供する次第である。

誰も明らかにしなかった「重力」の本質

 
 元来「重力観」には2つの立場がある。1つは「スタティック(=静的)」と見る立場(従来の重力観)であり、もう1つは「ダイナミック(=動的)」と見る立場である。筆者は後者の立場で見ると言うことを、ここで予めお断りしておく。なお、ニュートンからアインシュタインに至る重力観の系譜はすべて重力を「所与のもの」と見る立場であり、それゆえ重力の発生過程を説明しない立場であった。しかし、その視点の限界は、重力係数が定義ごとに異なると言う矛盾などに認めることができる。

 「重力」によって惑星上のものものは同じものものが真空宇宙空間にあるときよりも「軽く」なろうとしている。言い換えると、「重力」とはものものの結合力(分子間力)を弱めるエネルギーであると言える。それくらい単体物の宇宙中におけるエネルギーは強い。それゆえ「重力」は、地球上でのものものの本来(宇宙空間中)の「重さ」に対する「軽化」のはたらきをする。

 これが惑星の中心からの物性の変化であり、それにより球形でもものものが周囲に遇われる理由である。

 平たく言うと「重力」によってものものの結合力が弱まる。「重力」は惑星中心のガス「燃焼(燃焼物が燃焼温度になっても閉じ込められて燃焼できない可能性もあるのでこのような表現をした)」によって発生する現象である。意外に思われるかも知れないが、太陽系惑星は一番遠い海王星でもその中心温度は5000度はあり、その中で最も中心温度が低いのは火星(2000度)であり、地球を1としたときの重力が0.42しかない。これは太陽系惑星の中で最も重力が弱い。重力がガスの挙動によって引き起こされることを示唆する事実である。ちなみに月の重力はみんなが知っている通り地球の6分の1(中心温度1200度)である。

 星に高低ができるのは、単にものものの結合力の差の表現に過ぎない。このことを別の角度から考えると、重力と言うのは垂直に最も良くはたらき、天体を構成する全物質を堆積するはたらきであると言うべきである。よって天球の平面上の速度をもつすべての運動体は、上昇運動(この場合だけ重力は強まる)を除いて静止物体より小さな重力しかはたらかない。このことから、天体上で相対的に静止しているものにしか所与の重力ははたらいていないのである(しかし、天体がすべて運動体であることから、一つの要因として静止していることが重力を発生しているのか否かには議論の余地がある)。

 なので、同じ物質(もの)でも恒星・惑星表面にあるものと、真空宇宙空間にあるものでは、後者の方が結合力は強い。これが、直径がたったの数メートルの流星でも地球に与える衝撃がきわめて大きい理由である。逆に、太陽系惑星以外の宇宙彷徨天体が衝突しない限りは惑星公転の軌道から全く外れないのは、重力が質量に依存すると言う仮説の反証と見ることができる。

 ※なお、「ガス」と表現した部分は「特殊な鉱物の高温状態」と読み替えることもできる。

ユークリッド幾何学批判

 
 ユークリッド幾何学には、人間の認識と相容れない部分があるのでそれを質したい。

 点と線の定義において、それらは面積を持たないと仮定しているが、面積を持たない点や線は実在しない。

 こう指摘するとすぐにひとびとはイデア論の話に逃げる。点も線も真円も正三角形も実描に対するイデアであって、現実には描き得ず、なので真実に実在するものはイデア(仮構)だけなのだ…と。

 よくよく考えてほしい。この話は単なるレトリックなだけなのではないか、…と言うのも、点や線や真円や正三角形は現実に描き得ず…と言っておきながら、我々の脳裡でだけは描き得る、と言う…ちょっと待ってくれよ、そんなの我々の脳裡でさえ描き得ないではないか、…と言うお話になる。

 ユークリッド幾何学…延いてはイデア論そのものに矛盾があるのである。

 少し真面目に考えると、どこからそんなことを発明したのかは知らないが、点や線や真円や正三角形ほど真実には実在しえないものはない…だがみんなはそれ(=イデア)だけが真実に実在するのだと言う。

 ユークリッド幾何学自体の限界も含めて、イデア論に潜む矛盾についてご一考を迫っておく次第である。

理の矛盾のまとめ~行動主義とイデア論等~

 
 行動主義は「目に見える行動」を対象にすれば、それが科学の要請する客観性・公共性を担保できる旨をその唱道者であるJ.B.ワトソンに言われて著しくラディカルな「心理学」がもたらされた。

 しかし、現場の研究者たちは口にこそは出さないが、その当の「行動」は少なくとも現実的には2義以上の性格を持つ、すなわちその「行動」は研究者の推測上のものか、主体の現実のものか、或いは…と言う矛盾を孕んでおり、そのどこが客観的なのか、と指摘せざるを得ない。なぜこのことが問題にならないのかと言うと、研究者たちにとっては単なる推測上のことが現実にも起きるのかにしか関心を払っていないためである。

 プラトンが提唱した「イデア論」によると、「真実在はイデアだけ」で、それは心の中(脳裡)にしかないと言われている。

 たとえば真円とか正三角形と言ったものは作図をすれば必ず誤差が出ると言う。不思議なことに、みんなはこれを冗談だと解してはいない。なぜなら、真円とか正三角形と言うもの自体、すでに心の中(脳裡)でしてからが現実に描きうるわけではないからである。

 このような社会的来歴を持つ「イデア」と言う観念は、その誤解から解かれるために、「理念」と言い換えられるべきだと考えている。「イデア」は「形而上存在」と呼ぶことにしたい。ユークリッド幾何学を参照するまでもなく、線分とか点とかは現実には非実在である。このように、「形而上存在」と言うのは、本当は真実在どころではなく、真非実在(単なる理)である。このことを分かりやすく言っておこう。「理と言うものは目に見えない(理論の中にしか存在しない)」のである、あるいは「実在しないのはイデアだけ」、と。したがって当然、行動主義の追い求めるものも「目に見える」わけではなく、そこに我々が見るものはある種の特異な「理の現れ」であるに過ぎない。この理解は、ものをものとして定義できないと言う人間の感性認識の限界の問題も同時に語っている…感性は感性以上には認識できないのである(ただし、ユークリッド幾何学の難点を克服したければ、線分の内側・外側と言う認識を与えれば良い…「含まれている/含まれていない」は計算結果を左右しない…このことを「包含関係は範囲・面積にとって明晰である」と言うこととする)。

 最後に「因果律」についての誤解を解いておこう。特にヘーゲル以降ひとびとは因果律が適用されるべきではないような事象にも因果律を適用し、それを単なる事象継起程度の意味でしか用いなくなった憾みがある。しかしそれは誤解である。

 因果律で説明されるべき継起とは、「それがなかったらそれは起こらなかった」と言うくらい強い継起的関係性(焦点と像の関係)について言及するときに用いるべき概念なのである。ある哲学者によると、砲弾による要塞の破壊は、上司の命令によるとも言えるし、砲弾があったことによるとも言えると言って因果律の相対性を説き、それは一種の擬人化だとさえ言うが、別に上司の命令がなくても別の砲撃手によって砲弾を撃った場合でも要塞は破壊されうるので、前者ではなく後者の(とある砲撃手の手元に砲弾があってその砲撃手に砲撃の意志があった)方が「因果律」と呼ばれるにふさわしいのである。

 なお、現実から予想通りではあるが、このようなことを見るにつけ、人間の学習的洗脳性は高いと言わざるを得ない。