心理学には大きく分けて2つの学習についての考え方がある。
ひとつは、ゲシュタルト心理学の「学習とは認識の変容である」と言う考え方であり、もうひとつは現在の心理学界で主流の「学習とは比較的永続的な経験による行動の変容である」と言う考え方である。
ところで最近僕は、ものごとを見つけると言うことにおいて、「事象のほころび」と言うものが非常に大事であると痛感している。
そのような見地に立つと、「学習」が「事象や心のほころびを結ぶこと」に見えてくるわけである。
皆さんはいかがとお思いになるであろうか。
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心理学には大きく分けて2つの学習についての考え方がある。
ひとつは、ゲシュタルト心理学の「学習とは認識の変容である」と言う考え方であり、もうひとつは現在の心理学界で主流の「学習とは比較的永続的な経験による行動の変容である」と言う考え方である。
ところで最近僕は、ものごとを見つけると言うことにおいて、「事象のほころび」と言うものが非常に大事であると痛感している。
そのような見地に立つと、「学習」が「事象や心のほころびを結ぶこと」に見えてくるわけである。
皆さんはいかがとお思いになるであろうか。
今日お話させていただきたいのは、「統合失調症になぜ根治薬がないのか」についてです。
心理学におきましても精神医学におきましても、統合失調症の本質的病態は「ドーパミン系の障害」だと見られるのが一般的です。
しかし、僕が雪隠詰めで考え詰めた結果、統合失調症の本質的病態は、一般的に遊びにかかわる脳機能の不全(腹側淡蒼球の代謝異常)ではないかというのが僕の結論です。つまり、この意味において統合失調症はヤスパースの言うような「了解不能の精神疾患」ではなくなった、と言うことです。
ユングの「夢」論などにもあるように、統合失調症の病態的本質は「意識閾の低さ」、つまり「覚醒水準の高まり過ぎ」にあると思います。大きなところで原因を考えると、副交感神経系の失調がそれに当たると思います。不眠などの症状が随伴するのはこのためでしょう。これらの病態の表現は、違法薬物を摂取したときに現れる症状と同様であり、ただ薬理的に作り出されるか以下に述べるような病理的機序なのかだけの違いだと思います。
そのひとつのヒントとして我々は、統合失調症患者における視床網様核におけるPPI(プレパルス・インヒビション=信号前抑制)の低下を挙げることができます。そこから考えると、PPIの低下を腹側淡蒼球の機能不全によってもたらされるものと予測できます。
それが本当だとして、暇な読者のみなさんにはこの観点から統合失調症の根治薬の可能性についてお考えいただきたく望む所存です。
これは特に妄想型の統合失調症に言えるかも知れないことですが、あるいは、脳内の現実認識と目標の統合を担う腹側淡蒼球にGABAの抑制入力とグルタミン酸出力のバランスを回復する薬物を投与すると良いのかも知れません。
純心理学なアプローチも見えてきました。統合失調症の精神性の本質をひと言で言えば、「アナザーパイロット症候群(Another Pilot Syndrome:APS/人格内異操縦士症候群)」、言い換えれば「精神の二重性」であり、この二重性の主との内面的関係性をクラッシュさせてしまえば統合失調症は治ります。もし大胆な仮説を許されるならば、「大腸-心相関」の失調(たとえば批判耐性の弱さ)、つまり特定の自律神経系(大腸水分調節系)の失調も考えられます。その失調を回復できるのなら、統合失調症治療につながるものと期待します。
実を申しますと、僕の親戚には札幌で医者をしておられる2名の女医さんがおります。
そして僕の姪がいま大学の薬学部の5年生をしておりまして、時折会いますが、僕から見ると「まだまだだなぁ」と感じることがあります。僕もいくつかの学会所属の心理士なので、生理学的に考えないことがないわけではありません。
彼女の薬剤師としての成長を切に望んでいます。
皆さんもご存知の通り「うつ」は我が国の5人に1人は罹患するいわば「国民病」です。たぶん精神的な背景として、「努力への(あらゆる人間的意味での)報酬の割の合わなさ」の問題が潜んでいるように思います。
西洋医学での治療が主流の現在、セロトニン系賦活物質を投与することが「うつ」の治療の基本的なスタンスなのですが、筆者少し疑問を持っております。
「うつ」の初期症状として見落とせないのは、「寝覚めの悪さ」です。
ではなぜ「寝覚めの悪さ」が起きるのか、と考えると、「うつ」はたぶん「全般性活動障害」と見ることができるでしょう。「うつ」の罹患率は寒冷地ほど高くなる傾向が認められます。
人間の活動の基本的な生理は「クエン酸回路」で維持されています。この活動が弱まると神経信号として活動エネルギーを抑制するホルモンのような物質が分泌されて脳幹および全身にその情報がフィードバックされ、「うつ」になるのではないか?、と筆者は問題を思い直しました。具体的に言うと、5HT1Aレセプターの異常です。
セロトニン系の賦活と言うのはそのひとつのゲートウェイに過ぎず、根本的な対策にならないばかりでなく、疲労をなくすために無理矢理この生理を利用して一時の活動の亢進をもたらすものが「覚醒剤」で、そこの誤解が蔓延していることが我が国の「シャブ中」患者の増加に拍車をかけているようにも思います。
これでは社会疫学的に非常によろしくない。
「うつ」のこの初期症状に適応できる知恵が漢方にあることを西洋文明崇拝が強すぎる我が国のひとびとに再認識して欲しい、と思い筆者はこの「クエン酸回路」の賦活にとって非常に重要な薬味があることを思い出して欲しいと思っています。
それは「しそ」です。
古来より漢方では「しそ」は理気薬(気が停滞している状態を改善し、精神を安定させる薬)として用いられてきました。たぶん僕は上記のようなメカニズムにおいて「しそ」は「うつ」に効く薬たり得ると思っています。
東洋の知恵を「端的性がない」と我々は笑うことが果たして正しいのでしょうか?
従来の「うつ」の治療原則は「正しい服薬と休息」と言うことになっていますが、僕は少し違って「しそを食べて横になって忘れること」だと思います。
それと、近年「加味帰脾湯」と言う漢方薬で「うつ」が高い確率で治療できることが分かってきました。これは、睡眠障害をも改善することも分かっています。
話は「てんかん」になります。本質は神経系を司る神経、つまりいわば「メタ神経」の障害でしょうが、最近の医学研究によると、ヒストン脱アセチル化酵素ノックアウトマウスにペンチレンテトラゾールを投与したところ、てんかんは抑制されるという知見も報告されており、ヒストン脱アセチル化酵素のはたらきを弱めた上でペンチレンテトラゾールを投与することにより、治療に曙光が差してきました。
昔、あるスズメの子のなかに、さえずることができない鳥がおりました。
他の鳥たちは皆、さえずりをすることでお互い助け合って生きておりました。
なので、さえずることができないその子は、いつも仲間であるはずのスズメたちからからかわれたりいじめられたりしておりました。
そのスズメの子は思ったのでした。「自分みたいな醜いアヒルの子は産まれてこなければ良かったんだ!!」。そして夜な夜な目には見えない涙を流し続けました。
ある日、そのスズメの子が起きたときに、「何か大事なものは、どこにあるのかが分かると良いのに…」とふと思い、あたりを見渡すと、昨夜の嵐で飛び散った木の枝が散乱していました。
鳴かないスズメの子は、「そうだ!!」と突然何かに気付いたように、自分にとって大事なものがある方角にそれらの木の枝の先っちょを向けて並べることを思い付きました。
大事なもの、それは食べるものがたくさんある方角だったり、天敵に狙われると逃げるべき方向だったり、嵐の夜に風雨から身を守れる場所だったり、仲間がいる方角だったり、それはそれはさまざまなことでした。
その子はその習慣を身につけたおかげで、他の仲間たちよりもはるかに長生きできたのでした。
何かが欠けていることが、必ずしも生きる上では問題ではなかったのです。
おしまい。
ひとびとは限りある人生を生きているうちに、「永遠に死なないいのち」に憧れていました。
そこで偉い学者さんが、どんな環境にも姿形を変えることで永久に生きられる生き物と言うものがこの世にいないか、と言うテーマで研究を始めました。
それを天から眺めていた神様が、その偉い学者さんにすべてを司る力を与えてみたのでした。
偉い学者さんは実際に世界をそのようにしてみて、3つのことが分かった、と神様に心の中でつぶやいたのでした。
ひとつは、いのちに限りがなくなると、ひとびとはあらゆる感情を失って、虚しい永遠のいのちを生き続けなければならなくなってしまった、と言うことでした。
ふたつめは、生きることしかなくなった永遠のいのちは、それをよいことに永遠の心の戦を生き続けるしかなくなった、と言うことでした。
最後に、永久に生き続けるいのちがこの世の大多数を占めるようになると、神様が与えた自然の中では一時は良いにせよ、いずれ偏りが生じて自然自体が成り立たなくなり、永遠に生きられるはずだった理想のいのちたちはその万能性のせいで滅亡してしまった、と言うことなのでした。
それで偉い学者さんは悟ったのでした。「いのちというものは自然を相手にしてけんかを売るようなもので、いのちのかたちは理に適うように限られている」と。
神様がいのちを永遠にしなかったのには、そんなわけがあったのでした。
おしまい。
遂に人類がタイムマシンの開発に成功し、過去や未来に自由に行き来できるようになりました。
こけら落としに、そのマシンで原始人を現代に連れてきました。
すると、皆の期待とは大違いで、原始人は現代にやってきたのにあまり嬉しそうではありませんでした。
それを見た現代人は、もっと原始人が喜ぶと思っていたので、「原始人と言うのは感性に乏しくて、やっぱり所詮原始人だな」とがっかりしました。
逆に原始人は現代人にこう言ったのでした。「何かを引き換えにしないと何も得られない世の中と言うのは悲しい。我々には自分自身の行為だけで満ち足りられるひとしかいなかったのに」と。
いずれがと争うことは愚かであろうが、いったいどちらが幸せに近いのでしょう。
我々は誰かに殴られると痛みを感じる。体と心の問題と言うのは、そう言う経験則の範囲で十分なはずである。心と体という問題は例えれば海と泡沫(うたかた)のようなものである。
ところが、「科学」と言う因習にとらわれ過ぎたある国のひとびとが、「もっと殴ったら人間はどうなるか?」と言う疑問の虜になった。
そこで、そのひとびとはよその国のひとびとをさんざん殴り続けてしまった。
本当は誰にでも分かっていたのだ。ひとは耐えがたいまでに殴られ続けると頭蓋骨を骨折して死んでしまうことを。
いまでも「科学」と言う因習にとらわれ過ぎた国のひとびとは、結論が分かり切っているにもかかわらず、よその国のひとびとを殴り続けている。
もともとその国のひとびとは暮らしを豊かにするために科学を始めたはずが、そのせいでかえって心が貧しくなってしまった。
これは一体どういうことなのであろうか?
「目には見えない何か」が働くと、「心」と「身体」が同時に産まれる。
我々はそれを知らないだけである。
昔、ある村にとても優秀な美男と美女がいて、2人は結婚しました。
容姿や頭の良さにおいて「とても敵わない」とその村のひとびとは劣等感と苦悩に悩みながら日々を生きていました。
他のもう一つの村には、特段ひとびとの容姿や頭の良さで抜きんでる人もいなければ、劣ったひともおらず、特段の悩みもなく暮らしておりました。
ある村と他の村にはひとつだけ違いが出てきました。それは、劣等感と苦悩に満ちたある村では芸術が生まれ、心の慰めが生まれたのですが、他の村ではそれが生まれませんでした。
一体どちらの村のひとの方が幸せだったのでしょうか。
少しストレス関係のお話で「不眠と体温」について調べていたら、面白いお話を拾うことができました。
それは、「指の長さで分かる男性脳・女性脳」のお話です。
胎児が母胎の中で受ける男性ホルモンの量によって、人差し指と薬指の長さの関係が決まるそうです。この知見はイギリスのジョン・マニング博士が1988年に発表しました。
僕も自分の人差し指と薬指の長さを較べてみました。薬指の方が人差し指よりも1センチ以上長いです。
薬指が人差し指より長いひとの脳はいわゆる「男性脳」だと言うことです。
逆に、人差し指が薬指よりも長いか同じのひとの脳は「女性脳」らしいです。
性格的に何が異なるのかと言うと、「男性脳」のひとは神経が太くて積極的かつ理知的らしいです。
逆に「女性脳」のひとは人間関係に敏感だけれども噂に流されないそうです。
一般に男の子は戦を好み、女の子は平和を好むことからもそれは伺えるでしょう。
あなたはどちらでしょうか?
ちょっとしたパーティーの座興くらいにはなりそうなお話だとは思いませんか?
心理学と言うよりは医学のお話になるので「心身医学」の括りでお話させていただきました。
ついでに遺伝学的な日本人の特徴についても述べておきましょう。日本人は遺伝学的には、下耳たぶが耳下に対してくびれているのが特徴なんだそうです。筆者はその見解の持ち主ではありませんで、日本国籍を持つすべてのひとを日本人として考えるので、その点お断りしておきます。