思考の現象学

 みなさん、こんにちは。

 みなさんは、「思考(考えること)」について考えたことがおありだろうか?

 有名なのは、デカルトによる「演繹法」とベーコンによる「帰納法」であるが、僕なんかは現実に考える上でこれらの分類にはあまりにも現実性も実践性もないので考え直してみた。

 それらの考えになぜ現実性や実践性がないのかと言うと、常に思考を「法則」と関連付けるパラダイムが根底にあるからだ、と言えよう。

 どうしても「2分法」でと言う方のために、自分が普段営んでいる精神活動を分析してみた。

 そうすると、古典的な考えよりは現実的かつ実践的な思考の分析を導くことができた。

 ひとつは「傍証整合思考」で、もうひとつは「オーダー従容思考」と言うことになった。

 可能性の中から原因を探るときに我々は「傍証整合思考」を使う。

 新しい発見や発想をするときには我々は「オーダー従容思考」を使う。

 そしてどちらにも共通しているのは、それらは「探索過程と採否」を含む、と言うことである。

 図式的に書くとこうなる。

「問題・事象切片の検知」→「傍証整合思考/オーダー従容思考」→「結論の採否」

 とまぁ、定型的なことを言ったが、我々の現実の思考においては概ね両者がどちらも用いられていると考えるべきであろう。

 ところで、「ことばとは何か」を煎じ詰めてゆくと、「弾み(アクセント)とノリ(興不興)の体系」だと言うことになる。しかし、「弾み」には「音」も「波長」もある。「ノリ」には「気分」も「意欲」もある。絵画のようにそれがあまり目立たない人間活動もあるが、総じて言えば「ひとの心」もある意味での「弾みとノリの体系」だと言えなくはないだろうか。

 みなさんもいま一度自分なりに「思考」を考えてみませんか。

糖質と空気の不思議な関係

 みなさん冷凍庫にアイスクリームを入れてこんな経験はありませんか?

 「アレッ、アイスクリームの袋がパンパン」…。

 で思うわけですが、糖質が冷えると空気を膨張させているのではないか…、と。

 他にも、水だとそこそこの量がないと髪の毛は整えられないのに、自分の唾(つば)だとごく少量で髪の毛を整えられるとか…。

 ちょっと意外な暮らしのヒントかと思います。

意味の感度

 「哲学」と言う学範と言うか何と言うかには昔から認識を巡って「経験論(人間の心はすべて経験から作られると言う主張)」と「合理論(経験に先立つ器としての人間、言い換えればそもそも人間は経験を消化する様式を持っているので認識ができると言う主張)」に2分されて考えられてきた。

 しかし、「認識」と言うものは基本的に意味で現象を受け止めるものなので、その種別ごと、ひとそれぞれごとでそれなりの違いがあるだろう、と言う指摘は心理学などではたびたびなされてはきたことである。

 我々は、「学問」と言うぎちぎちの器で認識を考えるつもりはない。

 で、そもそもジョン・ロックの主張した「経験論」においては、人間の認識と言うものは「連合(連み)」から成ると言い、イマニュエル・カントの「合理論」においては人間には「先験的認識」があり、それが認識を可能にしていると言う。

 問題の「連みの認識」については、概ねロックが言うように心理学、就中学習心理学では「連合主義」が支配的であった。

 我々は「学問」と言う狭い器を無視して非常に常識的にこの問題を見ている。

 そもそも人間の認識をそのひとつひとつが「点」であり、理説が「線」であるとすると、どうも「点と点」を結びつける「経験論」なり「合理論」と言う「線」が、連みの認識の問題で引かれるべき「線」とはまったく異次元のお話であるような気がしてならない。

 そこで、我々が「連みの認識」を考えるときには、「意味の感度」と言うワンクッションを入れて考えないと、話がグダグダになってしまうように思っている。

 ひとそれぞれだけではなく、TPOや時代や境遇に応じてひとの「意味の感度」は違い、その違いによってならぬまでも現在の我々の、あるいは社会のあり方が規定されているように感じる。

 でまぁ、そう考えると何が明確になるのかと言うと、赤ちゃんには赤ちゃんなりの「意味の感度」があり、おとなにはおとななりの「意味の感度」はある、つまり、「先天的か後天的か」と言う議論は人間の現実のあり方について何も語らないと言う根本的な誤謬を抱え持っているのではないか、と言うことなのである。

 なお、珍しい、みんなと違う、あるいは印象深い個人的事象のマスコミ・信用筋による伝播は、当該個人の自意識に訴えやすい。ソクラテスでさえそのために多くの有識者の心を傷つけたその行動の元基には、占い師に「ソクラテス以上に賢いひとはいない」と告げられたためであった。この現象を「ソクラテス効果」と呼んでも良いが、それではソクラテスが可哀想なので、「プチ・サリエンシー効果」とでも呼ぼう。発信側がたまたま空想で思い付いたことでも、メディアが一対多である限り必ず誰かは傷つく。そうやって人間の運命は破壊されてゆく。

 今回は、「連みの認識」を考えるときに必要なワンクッションである「個々人の意味の感度」についてお話させていただきました。

寝癖の生態学

 みなさんは、夜眠るときに頭髪に「寝癖」がつくのが気になったことはありませんか。

 少しでもイカしたヘアスタイルをしたいひとにとっては悩ましいお話です。

 しかし、動物の生理現象にはそれぞれなりに何らかの「意味」があると考えると、「寝癖」の意味とは一体何なんでしょうか。

 僕はよく風呂上がりにそのまま眠ってしまい、多くの髪の毛が逆立っているのに後から気付いて、水に濡らして普段の髪型に戻すと言うようなことがままあります。

 しかし、髪がボサボサなことにはそれなりの生理学的、また生態学的な理由があるのではないか、と思い始めました。

 一番思うのは、髪の毛がボサボサだと言うことは、就寝時の髪の静電気量が一番多いときなのでは、と言うことです。そしてそれは、人間が一番無防備になるときなので、せめてもの「生きた振り(擬態)」なのではないか、と言うことです。

 なので、朝起きてからも我々はしばらくはボーッとしているのでその状態は維持されるのではないか、と。

 それは同時に、外見上「コイツはズゲェ」と思わせ、攻撃から身を守るための身体の知恵なのではないか、と。

 異論はあろうが、僕はそう思っている。

小噺「旬の給仕」

 昔、穀物は倉で保存しておりました。

 しかし、旬の野菜は長持ちしません。

 そこであるひとが倉から保存してある穀物を出して、ある野菜と一緒に食膳を出しました。

 それを食べたひとは、「なんて美味しいんだ!!」と飛び上がらんばかりに喜びました。

 そしてそのひとは給仕をしたひとに訊きました、「この美味しさは何なんだ?」と。

 そこで給仕したそのひとはこう言ったのです。

 「おくらいりですから」。

 お後がよろしいようで。

YouTubeアプリアクセスと頻回アクセスで440アクセスロス        ~YouTubeの闇~

 僕の原案で制作された「枯れ木にうんこを咲かせましょう」と言う曲のYouTubeアクセスが1000回を超えました。

 で、喜んでいたら、突然その後あったはずの60アクセスが消えてしまいました。

 なぜかを考えると思い当たることがありました。

 それは、スマホのYouTubeアプリを使って自分の曲を再生したことです。

 本来であれば、すでに1100アクセスに来ても良いだけの再生回数を誇っていたので、これには心折れました。

 これまでもときどき突然アクセス数が減るという現象に遭ってきましたので、こう言うことが有り得ることは心では分かっていても痛いです。

 自分の動画を自分のYouTubeアプリで閲覧するのはやめた方が良いみたいです。

 再生回数が1100を超えたらまたいきなり80アクセス飛びました。これはどうも僕が頻繁に自分のアクセス数を気にして再生したのが原因のようで、がっかりです。

 そしてまた、300アクセスが削除されました。その後100アクセスが。

 YouTubeってのは恐ろしいところだぜ。ひとがいればいるほどひとがいなくなるんだ。

心理学15の転回点

 1.生産性の規定因を探ったいわゆる「ホーソン研究」をはじめとする産業心理学説には「社会の中の企業」と言う視点が欠落していたため生産性の規定因を特定できなかった

 2.「絵画で心が分かる」と言う発想は、TPO無視の暴論に近い。特にひどいのは臨床心理学においてエビデンスのないほとんど芸術論のようなマズローの「欲求5段階説」などを高等教育機関の教員でさえ訓詁注釈している有様である

 3.心理学が「認識」を捨て「認知」概念にすがるようになったのには、「認識」と言うものが「事象を思いにフィットさせる自己説得過程」であるため、想定するグランドセオリーを築けなさそうだからである。もうひとつの事情として、AI神話があり、「プロダクションシステム」と言う「データ、ルール、インタープリタ」の可能性を過大視している向きがある。しかし、人間をはじめとする高等動物のコミュニケーションの9割がそれを成すような「訴求力」は「プロダクションシステム」によっては定義できないと言う事実を顧みていない

 4.最近よく引き合いに出されるE.L.ディシの動機付け理論において、「コンピテンシー」と「自己決定感」の2要因理解は肝心の「価値観」を除いて論じられている

 5.学習心理学の諸理論は、そもそもが実験動物主体の理論追求であったせいもあってか、「学習の時点」が必ず報酬を得た時点だと考えているが、我々人間の学習というのは、「その意義に気付いた時点(たとえば、「あれは良かった」などと経験を振り返った時点)」にも強化されると言うのが我々人間の常識であるはずが、すっかり忘れ去られている

 6.学習心理学にはそもそもから「残念賞」な部分がある。「科学」を志向しすぎて「行動主義」が生まれたときに、シカゴ学派のひとたちはラットを使って「学習」について研究をスタートしたが、そのとき気付くべき大きな知見があったのである。それは、野生のラットと飼育されたラットでは「気性」が180度違っている、と言う事実である

 7.いわゆる「ファシズム」はラタネとダーリーが説明に使った3つの要因を引かずとも、イソップ童話の「ネズミの相談」で説明できる

 8.誰も指摘しない「こころの証拠」は、「行為の反照性(存在の内在化)」にあり、純心理的ご褒美に反応するか否かでその存在を推定できる

 9.統合失調症治療には、「セロトニン系5HT2Aレセプター修復剤」を開発すれば良く、うつ病では仕事内の人間関係的報酬を仕事に見合うだけ回復することが予防の鍵となる

 10.社会心理学的事象には柳田国男の「ハレとケ」で説明できる事象が多い。例えば、学校のトイレで大便をした子どもがなぜからかわれるのかは、それらで説明できる

 11.「こころの定義」が心理学では慣用的で明確ではない。筆者の見るところ「こころ」とは、「思い(想念)と認識(想念帰着)の構造体」だと考えられる

 12.「理を知ること」において最も大きなファクターは「表情を読み取る力」であり、いわゆる「知能」と言うのは「確信を持って相手の目線を追い適切に対処する力」のことであろう

 13.学校の成績が示しているものは、「頭の良さ」と言うよりも、「学校の授業を意義深く感じやすいか」と考えた方が良い

 14.コリンズとロフタスの「活性化拡散モデル」は我々の日常生活でと受験勉強でと問題意識のあるテーマの思考でと与太話では記憶のあり方そのものが違う気がするが、ちと乱暴な見解ではないか、それなら、「意識は関係許容圏界面の移ろいからなる」と言った方が同じ屁理屈でもましではないか

 15.感情の本質は、「認知的OK-NGメーター」である