人間の日常とAIの示差

 以前の記事に書いたことだが、「人間はきっかけと気づきの動物である」と指摘した。

 人間の認識の勘所と、人工知能(AI)の勘所の違いをこの記事では述べてみたい。

 AIは簡単に言うと、「すべて定義されたシステム」だと言うことができる。

 しかし人間の「きっかけと気づき」は完全には定義しきれないばかりでなく、かなり気まぐれに成り立つとは言えないだろうか。その上人間社会では何よりも「訴求力」がものを言う。

 コンピューターには「曖昧な認識」は持てない。「曖昧な刺激を識別する」ことはできても。コンピューターには「訴求力」も持てない。「訴求力」はいつの時代でも経験値であり、「訴求力の当て推量」はできても。

うんこが暴く「行動主義」の如何様

 

 こんにちは。  

 「心理学は目に見える行動のみを研究すべきである」と言う「行動主義」による心理学での「学習」概念および知見には常識では得心できない部分があります。それについて短くお話します(特に第7パラグラフの末尾()内に注目してください)。  

 まずはじめに述べておきたいのは、「学習」と言うものは、たとい暗黙裏にではあっても、「意義(関係性の訴求力)に気づいた時点に成立する」と言うのが僕の考えです。人間くらい複雑な有機体では、「情報の時点で気にかけることは変わる(=気にかける時点で情報へのアクセスのあり方も決まる)」と言うことです。

 我々は、ある日お医者様がテレビで「ウ○コが臭いのはがんのサインです(=条件罰刺激→これはすでにひとつの対呈示型の条件付けになっている)」などと話しているのを聴き、その後の日常でたとえば「自分のウ○コが臭かった(成立した条件付けにおける罰刺激による強化)」などと言う経験を持つと、次の日からそのことを気に病むようになる(=条件付けの成立)でしょう。この現象を支配しているのは、「関係性の意義(訴求力)を知ること」であって、刺激と強化の先後性ではありません。あるいは何かで逆恨みしたひとが、幾日かして棒を見たら「これであいつらを叩き殺してやる」と思うかも知れません。ありがたいお話をしたひとが話をしてからひとしきりして「コホン」と咳をした。「いい話をするのには喉が大変なんだな」と我々が認識する。船が港にないので「船は出航したんだな」と知る。あることを主張した後に身だしなみが乱れていたのに気づき、その後あることを主張する際には常に身だしなみに気をつける。誰かの話を聴いて事情を察する。どれも刺激と強化の先後性の問題ではないことがお分かりでしょう。このように、すべてをオペラントと報酬で解釈すること自体に限界がある。

 報酬や罰が与えられた後に条件刺激が与えられるタイプの条件付けのことを「痕跡条件付け」と言い、一般に成立しない事象だと考えられています。そうすると先行した報酬や罰の後に呈示された条件刺激を「それには何か報酬や罰にとっての意味はあるのだろうか(たとえば告白された好きな異性の何でもない仕草が(それが自分への愛情のサインだったのだろうかと)気にかかる)」と訝ることはできない相談になります。

 しかし、よく考える読者は次のことに気付くでしょう。関係性の覚識を持ちうる報酬と自発行動(オペラント)については、次のようなことがあり得ることを。すなわち他個体の報酬に続くオペラントを観察する。後に自分に特定のオペラント状況になったとき、そう言えば的にある報酬とオペラントの関係に気付く、そしてオペラントを行う(例:パチンコ、自動車の運転等…これらは、刺激-報酬と言う文脈でも理解できれば、報酬-刺激と言う文脈でも理解できるのである)。この問題では重大な問題も提起される。つまり、この個体はそのオペラント-報酬関係を「自分事」と見なければこの学習は成立しないのか、あるいはその事象関係を単に一般論として認識するのか。また、ソーンダイクが言っているようにこのような学習が機械的に成り立ちうるものなのか、ひとつひとつステップワイズに学習が進捗するのか、言い換えればそのような学習はどのくらいの深度で起きるのか。そのような認識と言うもの自体、ただの事象の羅列を見ていただけなのに、なぜそれらの関係性に気づけるのか、その認知的基礎は那辺にあるのか。注意機制がはたらくときとはたらかないときがあるが、その差は何によるのか。いずれにせよ、関係性の覚識が事後に認知されるので、この学習は一種の「痕跡条件付け」になっている。

 しかし、上に述べましたように現実には人間では普通に見られる学習です。そもそも学習心理学における「中性刺激」と言うものが本当に「中性刺激」と言い切れるのかどうかも疑問で、実は必ず人間を含めた動物たちには環境の一々について生態学的意味があって、もしかしたらラットでも「餌を食べたら天井灯が点き、明るさと言うアメニティが得られるので餌を食べる」と言う学習があり得ないと断言はできません。「中性刺激」が「退屈な刺激」か「魅力的な刺激」かはその有機体しか知り得ぬことです。そんなわけで、「報酬的ないし罰的関係性の理解」さえあれば、どんな条件付けでも成立し得るのです。もしこの手の学習が成立しないと言うことであれば、そのような無数の要素からなる「学校の授業」などの意味伝聞的学習は学習心理学上無意味だと言うお話になってしまいます(そう言う意味からではありませんが、僕は9割の学校の授業は大方のひととは無縁の与太話だと思っています)。  

 要するに、我々はそれが強化子か罰子かは任意の刺激による行動の増減で推察していますが、たとえば適度な刺激を有機体が求めているのであれば、行動の増減が強化子によるものか罰子によるものかは断言できないと思うのです。たとえば空腹な時のご馳走と満腹な時のご馳走は、強化子にもなれば罰子にもなり得ます。その上常に学習は一定の振れ幅で更新され続けてゆきます。心理状態と言うものは、常に揺れ動いています。この辺の事情からプレマックの原理とか、アリソンとティンバーレイクの反応制限説とかが出てきたわけですが、ここでの筆者の関心事ではないので、割愛します(要点だけを言うと、ある行為を他のある行為に枠付けてしか理解できないことが行動主義の根本的欠陥なのである…ワトソンは行動は観察の前に一意だと言うが、実はそれも違っていて、通常我々は「観察事実」が我々の推察なのか被験体の主観的事実なのかの区別を特につけているわけでもない…つまり、本当に客観的なことは「観察事実としての行動」を以てしても決まらない…行動から意味を抜き去っても、それは行動にすらならない…「たぶん、…だろう」…これは、どれだけ観察の「精度」を上げても振り払うことのできないアポリアなのである…この問題の本質は、「意味の効能の推定」と「事態の推定の不可抗力感」の2面から考察でき、これらにダブルチェックが入っている限りでその意味は「生きている」のである…したがって我々が事態を正確に伝えたければ、ありふれた表現になるが、事態の推察性の正確を期すばかりではなく、意味の正確性に気を付けること、そこまでが我々のコミュニケーションの正確性の限界だと言うことになる…しかし、「どこまで詰めればそれは真実なのか」は厳密性の問題にはなり得ても、何がそれを保証するのかは明らかにはし切れない…ただ言えることは客観性と言うのは「それしかあり得ない主観性」のことだと言うだけだ…我々は一般問題として、この問題の本質はその真実性にあるのではなく、コミュニケーション維持性にあるとみている…つまり、意味に困らないようにコミュニケーションが存立するのではなくて、コミュニケーションに困らないように意味は存立するのだとみている)。  

 他にも我々にはこう言うことはあるのではないでしょうか。「俺がさっき話したことは覚えておきな」と言われて我々がそれを覚えておくことがあり得ることを。あるいは「○○でないと気が済まない」と言うことが有り得ることを。パソコンの実用よりも設定に熱心になるように「手段の目的化」が有り得ることを。またあるいは、「あ、あれそう言う意味だったの」と言うような「言われて気付く(いわば「振り返り学習」)」ことがあることを。「きっかけと気づき」の前後関係がどうあろうと、学習における「気づき」は人間の場合いつでも任意の時点です。これらが「報酬と罰」による学習心理学的説明でできるとでも言うのでしょうか。

 たとえば、鳥さんの育児行動を考えてみましょう。鳥さんの育児行動、たとえば餌を与えるとかお尻を舐めるとか、こう言った行動が単に「報酬と罰」で説明できるでしょうか。僕は無理だと思います。なぜなら、鳥さんの育児行動が世代を超えて受け継がれて行くのは、その行動の意図なり意味なりが雛鳥たちに伝わることによってではないでしょうか。親鳥に対する雛の親しみの感情も、そうでないと生じないでしょう。単に「餌」と言う強化子、「尻を舐められる」と言う強化子のみによって雛鳥たちはそれらの行動を学習するでしょうか。情愛を感じるでしょうか。それは無理でしょう。雛鳥たちが親鳥から学ぶのは「報酬」でも「罰」でもなく、「気遣い」なのではないでしょうか。 

 で、なんで我々の学校の授業が大方覚わらないのかと言うと、「自我関与しているか否か」よりむしろ「その気づきは主観的評価を伴っているか否か」、すなわち「欲求があっての理解か否か」の問題だと思うのです。 人間は「境遇の動物」であり、「きっかけと気づきの動物」です。

 要するに、「行動主義」は「意識なき心理学(Psychologie ohne Bewusstsein)」だから人間の学習が「気付いたときに成り立つ」と言う至極当然の常識さえ説明できないと思うのです(無論、無意識的学習もあることは否定しません)。

 言いたいことはこういうことです。これまでの学習心理学は条件付けだのなんだのと言う偏ったパラダイムを追いかけるのではなく、「動機付け」と「行為」と言う観点から有機体の学習活動を考えていかなくてはならないでしょう、と言うことです。

 

心理学が科学だと言うことへの疑念

 ヴィルヘルム・ヴント以降の心理学は「科学」だと言う。これから「そうかも知れないけど…」的なお話をします。

 心理学における実験デザインの典型的な例は、他の条件が皆同じで(ceteris paribus)ひとつの変数だけが違う場合に、そのひとつの条件が結果に差を与えているのかどうか、のような場合です。

 心理学科で学ばれた方は一度は聴いたことがあると思います、「実験とは因果関係を確かめるものである」と言うことを。

 しかしたとえば、大食をする子と小食な子の体重には違いが見られるか、と言うような問題を考えてみてください。

 もし差が見られたとして、これは「大食か小食か」だけの問題でしょうか?

 もしかしたら、大食と小食を分けるものが食物分解酵素のはたらきだったら、あるいは代謝の活発さだったら、「大食か小食か」が「原因」と言うよりは、単なる「側面変数」に過ぎない、ということになりはしないでしょうか?

 あるいは、「体調が良くなる」と謳われたサプリの効能は、サプリそのものではなく、サプリを飲むことを意識したために「規則正しい食生活」になったためかも知れません。

 こう言う疑問を抱かせるような心理学研究は数限りなくあります。と言うよりかなりの心理学研究がそのようなピンボケに陥っています。

 「科学科学」と偉そうに言っても、本質を突いていないのに騒ぐのは少しどうかしているのではないのかな、と思う次第です。

 僕は思います。変数間の関係について正確な見通しを与えるものは、結局人間の直観や洞察なんだ、と。

 手続きが科学的だからと言って、ものごとの本質を突いている保証などないと言うべきではないでしょうか。我々は「科学」を盲信するのはひととしてどうか、と思う次第です。

学校の授業が退屈なわけ

 従来の学習心理学では学習の規定因を「強化と罰」だとし、レスコーラ=ワグナーモデルでは「意外性」、マッキントッシュ説では「情報価」だとされてきました。  

 しかし、特に人間の学習で学習に対して大きな影響力を行使しているのは、 「意外性」でも「情報価」でもなく、「その気づきに意義を感じられるか」 の問題だと思います。言い換えれば、「欲求があっての理解かどうか」の問題だと思います。  

 実験動物の挙動と我々人間の挙動を混同すべきではなく、人間の学習にとって重要なのは繰り返しますが「その気づきに意義を感じられるか」すなわち「欲求があっての理解かどうか」であり、 そのようなわけで「考えさせる授業」や「教え合い」ほど学習として定着しやすいのだと考えます。

 なのでこう言う逆説が成り立つのではないでしょうか。学校での成績優良児は、「頭が良い子」なのではなくて、「学校の授業に意義を感じやすい子」ではあるまいか、言い換えれば子どもの教科教育への評価(教師の教育への子どもの評価)ではあるまいか、と。

 無論、各人にそれを学ぶかどうかの選択権も必要です。あるひとにとって「取るに足らない」と思われる内容は学ばなくても良く、「これは大事だ」と思ったことは学べる体制が重要だと思います。

 なので、江戸時代のことを徳川家の末裔に話した方が余所家の末裔に話す方より学習の進捗は早いだろう、と考えられるわけです。

記憶の意識説

 コリンズとロフタスの「活性化拡散モデル(講座 心理学概論参照)」はあっけに取られるほど誰でも考えられそうなありきたりの理論だったので、僕はがっかりしました。

 彼らの発想の大元には、「体験的・概念的近似性」が仮定されていますが、さて、我々の日常の会話などを思い出したとき、どうでしょうか。

 我々の会話においては、たとえば見聞や出来事の陳述だったり感想だったり「このひとにはこれを話そう」だったりしますね。それをたぐっていくと、少なくとも「体験的・概念的近似性」だけではないことが明らかです。

 「今朝ちゃんと歯磨いた?」「忘れて寝ていた」、このひとつの会話だけでもその反証には十分です。

 さらに、我々の日常会話では「なぜそう思うの?」と問われることはよくあり、このようなとき我々の頭が思い浮かべるのは「理由」や「根拠」や「例」だったりします。

 では、我々はなぜあることを記憶しているのでしょうか。言い換えると、我々はなぜあることが「気にかかる」のでしょうか。

 僕の考えはこうです。「分かることは分かるので気持ち的に即時にTPO的に趣旨が意識され、分からないことは分からないので気持ち的TPO的な圏界面ができて意識する」。

 こうなるともはや「記憶」だけのお話ではなくて、我々の「意識」の問題なってくることがお分かりいただけると思います。我々の実生活において、ひとり「記憶」だけがものを言う場面と言うのはそうそうめったやたらにないのが現実でしょう。

 意識は「気にかかる」だけではなくて、ものごとを造作すると言う側面もあるでしょう。これについては「新たな成り立ちへの気づき」がその本質だと言えるでしょう。

 こうなってくると、認知心理学の「トップダウン処理」や「ボトムアップ処理」だけでは済まないお話になってくることがお分かりでしょう。

「学習」を考える

 心理学関係の人間なら、「学習」と言うのは「強化と罰」によって成り立つものと強く思っている向きも大きいであろう。

 その発想の根源には、いわゆる「心理学は目に見える行動のみを研究すべきである」と言う「行動主義」がある。そう考えると、当然「強化や罰」も可視的ではなくてはならない、と言うお話になる。

 しかし、その発想には我々の「学習」についての大きな見落としが7つはある。

 我々は、「雰囲気」や「ムード」を感じることによって行動を起こしたり抑えたりもする。無論、それらは「強化や罰」でもなければ可視的なものでもない。「雰囲気」や「ムード」と言うのは、惹起する行動との必然的関係にはない。取り敢えず、このタイプの学習を「誘発的学習」とか「閾値超え学習」と呼ぶことにしよう。その手の「学習」は、後々自分を振り返ったとき、「あぁしたことは感心した」と気付いた時点で定着するのであろう。こうした学習は、強化されるか罰せられるか以前に、要不要の判断が先行する。「学校なんか行かなくて良い」と言う親は、子どもが学校で授業を受けること自体に弊害があるのではないか、最低限の生活をする上でそれがどれほどの意味があるのか、と心配しているかも知れない。つまり、我々が意識しようとしまいと、学習の前提として価値観が存在するのである。

 この手の学習で、我々にありがちなお話も指摘できる。ロフタスの「事後情報効果による虚偽の記憶」と言う問題から派生して、我々は何でもない記憶(たとえば、自分の「ウ○コが臭かった」と言う記憶)が、後々テレビなどで医者が「ウ○コが臭いのはがんのサインです」などと言っていると、どんどんそれを気に病むようになってくる、と言うようなお話である。これは、中性刺激が罰子に不安を介して変化してゆく例である。つまり、こう言うことは学習心理学では否定され続けてきた「逆行条件付け」が意識的存在の人間では当然のこととして存在する、と言うことである。この類いのことは、「言われて気付くこと」と言えるであろう。

 「自我のあり方」も「学習」を規定する大きな要因である。大きな括りで言うと、内向的なひとと外向的なひとの「学習」の様相は全く違うだろう。

 「好奇心による学習」もそうであろう。それは「報酬や罰」と言う中間過程を経ずに成立するし、「何が良くて学習したのか」の理由を探しても一意に特定の何かをそうだと断定しきれないし、「好奇心」のせいで何もかも学習するのかも知れない。この場合の学習原理にアリソンとティンバーレイクの「反応制限説」による説明の余地はない。なぜなら学習素材XとYの間に関係があるかどうかは分からないからである。

 「行動のスタンダードさ」も我々の学習を規定する大きな要因であろう。周囲から「君の顔だったらあんな高嶺の花にアタックしても見込みはない」と「暗黙のプレッシャー」をかけられているのを想像すると良い。「プレッシャー」はその成り立ちからして頻回性の原理から生じるもので、「報酬と罰」には分解できない。いわゆる「常識」と言うものもこの中に入ると思うが、これは我々の感性に依存する。これも「是認」や「否認」と言った「強化と罰」以前の問題である。ただ、「ほら見たことか」と言われたくないだけ程度の消極的な理由で維持されている行動は数限りなくある。

 「恋」のように強化子が何かが分からない人間現象も指摘しておくべきだろう。「恋」においては「強化」されなくても維持されるという特質がある。アイドルの追っかけなどもこの範疇に入るだろう。

 ケーラーが見出した「インサイト」もそうであろう。特にヒトの場合、その成立には「欲求」や「強化と罰」ではなく「価値観」や「視点」や「考え方」や「感受性」や「正しさ」と言う「報酬や罰」とは異なる心理的前提がワンクッションとして必要である。「決して強化されることのない」難病治療法を一生追い求めて人生を終わる医学者はいくらでもいる(この場合は無駄口をたたくとすれば「予期」が「報酬」だとこき抜かすことはできる)。

 最後に、学習の本質が本当に機械的即物的な「強化と罰」にあるのかを振り返ってみる必要がある。多くのひとは「強化と罰」によってより、「結果の知識」とか「動機付け」によって「行為」を決めるのではないだろうか。このあたりは、もしかしたら大きなパラダイム・チェンジを必要とするのかも知れない。

 これらのことから、我々は「行動主義」を「人間の学習の説明」さえ全般的に疑わしい「意識なき心理学(Psychologie ohne Bewusstsein)」と断じざるを得ない。

 バンデューラの「観察学習」も含めて「学習」をめぐる行動主義の視野にはないものが、探せばいくらでも出てくる気がする。どうしてそうなのかと言えば、心理学者というのは「仮説」と言う名の「決め付け」をするのが好きだからである。

 時は無限ではないので、人生には「失敗という名の成功」も「成功という名の失敗」も「答えがあるという答え」もあれば「答えがないという答え」も数限りなくある。たぶんそれは神様でも何がどちらとは分からないであろう。我々には「時代」や「生活様式」と言う極めて境遇的で個別具体的な縛りがあるからだけでそうしていることで埋め尽くされているためである。

 

パーソナリティの維持要因

 

 大学などで心理学を専攻された方なら誰しも知っていることとは思うが、心理学と言う学範の中では、「パーソナリティの維持要因」を「自己肯定感」だとか「自尊心(self-esteem)」だとか「優越感」だとか考えられているのは周知の事実である。  

 しかし、そのような見方には、「大学」などの「高等教育機関」独特の文化が反映されているのではないか、と思わされることも多い。  

 「大学」は「お受験」をして「合格」と言う「お墨付き」を得たものが通うところである。  

 なので、その了見をそのまま地で行けば、「パーソナリティの維持要因」が何か「特別感」めいたものになることはことの成り行きとしてある意味自然なことなのかも知れない。  

 しかし、我々のような在野の人間から見れば、「みんなはどうして何だかんだ言って人生を生き得ているのか」と思うと、なにもそう言う特別な人間の「心の支え」を仮定する必要など1つもなく、端的な言い方をすると、「勿体がもつから」やってゆけるのではないか、と思うのである。

 この「勿体がもつ」ことの測度は、「自己肯定感」でも「自尊心」でも「優越感」でもなく、単純に「自己大丈夫感」と考えれば良い。 

 「勿体がもつ」のには必ずしも「特別感」めいたものの必然性はなく、実に様々な理由が含意されているのではあるまいか。  

 それは価値観そのものを疑うことなしに我々は真実にはたどり着けない、と思う一例であろう。それは我々が何でも「価値付ける」ことによって生きているのか、と言う人生観における常識の限界を示しているのかも知れない。

 ※この記事は、僕の中学校時代の友人観察を基に書かれました。

理を知ること

 

 理とは何ぞや。理とは自然における事象の規矩性である。  

 多くのひとたちは、「理を知る」と言うことは「頭の善し悪しの問題」だと勘違いしているように思う。  

 しかし、僕の人生経験では、「理を知る」と言うことは「頭」や「知能」の問題などではなく、「表情を読み解く力」のように感じている。  

 もちろん、「表情を読み解く力」は、程度の問題はあれど、対人関係や社会関係の豊かさによって涵養されてゆくものだと思う。  

 みなさんは気付かないかとは思うが、この「表情を読む」と言うことは、無機的な見方をすればかなり難度の高い荒技であることにお気づきだろうか。それが生得的に備わっていることにはただ驚嘆の意を覚えずにはいられない。  

 理を用いて何かを「創造」すると言うのは言うまでもなく「建て付け」の才覚であろう。しかし、その本質は「直観」であり、結局「表情を読み解く力」に帰さしめられるように思う。  

 では、「頭」とか「知能」と言ったものの正体は何なのか。  

 それはたぶん、「知能」派の心理学者に言わせれば、「思考的技巧力」、すなわち「まったくの傍観者として諸事象を系統的に整理して理解する力(ものごとに都合をつける力)」のことを言うのであろう。一般に知能指数(IQ)と呼ばれているものは、答えが1つしかない課題への正答の多寡の問題であり、ある意味で概念そのものが「思考的技巧力」とはまた何か別のものを見ているように思われる。それは知能と言う仮説的構成概念があたかもひとつのモジュールであるとする見方が強いためである。

 敢えて僕なりの「IQ観」を言わせていただけば、「IQ=知能」と言うわけではなくて、「IQ=意欲」だと考えている。なので、「IQ(知能)」と言う概念は、誤った偶像崇拝のような気がしている。

 それをもう少し敷衍して言ってみよう。僕の父方の祖父は尋常小学校の頃、いつも学年で1番の学業成績だった。それは祖父が素人の将棋で最高位の3段だったことからも窺える。僕は遺伝的に祖父の血を継いでいる。それは祖父の系譜はみな脱腸で、僕も脱腸だったので知れることである。しかし、僕の義務教育時代の学校の成績は概ね平均程度に過ぎなかった。それで学業成績とか知能と言うものが「何にでも意欲を持って取り組める力」だと思い至ったわけである。

 要するに、「IQ神話」があるせいで、多くのひとは「高IQ=頭の良さ」だと信じているようであるが、その考えは経験的に見て完全に誤っている。

 そのような意味で、こころと言うものは、我々の見当違いがとても多く含まれているという気がする。

発話の機構と言語運用

 我々は常日頃からこのように日本語を話しているわけであるが、筆者の母国語である日本語の習得経験をヒントにタイトルのようなことを考えてみたい。  

 筆者は母国語である日本語を自分の祖母に身につけていただいた経験の持ち主である。  

 まだ3歳にも満たない筆者は、日本語の習得が大変難しかったことをよく覚えている。  

 言語の習得というのは、たぶんステップワイズ(逐次的)に進んでゆくものではなくて、いわば「言語ゲシュタルト」とでも言うべき言語の構図を「丸呑み」することで身に付くものだと言うことが何となく筆者には分かっている。  

 それは、「何を言っているのか」が分かると言うことはおぼろげながらできても、自らその言語を運用できるようになるのには完全な言語、ひいては言語機構そのものの「丸呑み」が必要だと言うことである。  

 この「ことばの丸呑み」ができて初めてたとえば筆者なら日本語をマスターできるように思われる。  

 動機付けと言う側面から見れば、「分からないのがもどかしい」と言う切迫した心理状態がその後押しをしているように思われる。  

 言語の運用は、少しずつできるようになる類のものではなくて、「ある日突然覚わるもの」であることをご理解いただきたい。

子どものウ○コの心理学

 我が国の小学校などでは子どもが学校のトイレでウ○コをすると、からかわれたり馬鹿にされたりしますよね。それがなぜかについての僕なりの見解を示しておきたいと思います。  

 柳田国男は、人間の生活には「ハレとケ」があると指摘しました。  

 子どもと言うのは大人以上に「ハレとケ」に敏感なので、「ハレ」の場である学校で「ケ」であるウ○コをすることは恥ずべき行為だと認識されるために、学校でウ○コをした子どもがからかわれたり馬鹿にされたりするのだと考えます。  

 これは大人からの影響ではなく、子どもに自生的な規範だと考えます。子どもと言うのは、我々大人の子ども観に反して、かなり幼くても公私の別が強いと考えるべきでしょう。

 なので保育所や小規模校でマンツーマンのような学校ではこのような現象は見られないと予測されます。

 また、子ども同士だと、こう言うことばを喜んで使うのは、それが子ども同士の親しみを表す符牒のようなものであるとともに、大人に構われる格好の話題だからだと考えます。

 最近ではこの問題に対処すべく、トイレから小便器を撤去するなどの対策が講じられています。その成否は、トイレの防音・防臭施工にかかっていると言えましょう。