意識の発生メカニズムについての一考察

 自分の専攻学科である関係上、このような内容の論文発表は過去2回、日本心理学会大会にて行ってきた。

 表題の問題について、簡単に筆者の見解を述べておく。

 基本的に「意識とは何か」については繰り返し指摘してきた通り、「存在感覚」だと言えるように思う。

 筆者なりの意識の発生メカニズムの基本は哺乳類および鳥類、つまり親子関係が出生後重要になる生物に特徴的なもので、親子の関係維持の必要から生じるものと考えている。

 したがって、意識の発生要件には、「依存性をベースとした関係の継続性の必要」が最大のファクターだと考えて良いように思う。

 そして、それを前提としたその存在の内面的継続性・融通性(行為の調節性)が認識できることを以て「ものごころがついた」と認識しうると言えようかと思う。インデックスとしては「行為の自在性」が最たるそれであろう。なぜそのような「制御感」が直接のディフェンス行為がなくても生まれるのかと言えば、「養育-模倣-巣立ち」の過程を経る動物では、そこから「意識」が「迷い-意思決定」を経て給備されると考えるのが自然であろう。

 意識が一番端的に見られる現象は、「自分を庇う」と言う行為のように思われる。なので、同じ動物でも身体障害のある個体の方が身体障害のない個体よりも「意識的になる」であろう。このように、基本「傷つけられることから守ること」に意識のレゾンデートルがあるように思われる。究極にはこの一点に尽きるのではないか。

 では、は虫類、両生類ではどうだろうか?たぶん、彼らには意識が「ない」のではなく、未分化なだけかと思われる。

 傷つかないための意識なのに、人間はなぜ傷つけ合うのか…いまのひとびとは一方的に思うことに慣れすぎている…

 まとめると、「意識」はそれがいかに低次なものであっても「予期せぬ障害-困惑-目論見的対処」により醸成される。なので、おぼろげながらにも自己対象視ができている状態を「意識」と呼ぶのであろう。なぜ人間が「意識的存在」の最右翼なのかと言えば、おそらく出生時に最も未熟な状態で産まれてくるゆえではないだろうか。

 以上、心理学で有名な「モーガンの公準」から一歩出たところで意識を考えてみた。

Key Words : 障害 その背景としての環境多様性

マズロー理論の読み方

 「マズロー理論」、すなわち「生理」・「安全」・「所属と愛」・「承認と尊敬」・「自己実現」のいわゆる「欲求5段階説」は果たして何のために考えられたのであろうか、と言う疑問に筆者長年思いあぐねていた。

 エビデンスがあってそう言ったのではないとか、あまりにも芸術的だとかの批判も耳を傾けるべきところは多かった。

 もしこれが「人間の心理的成長」にかんする理論だと言われれば、やはり僕の中には強い反発がある。

 しかし、最近気づいたのは、この「マズロー理論」は本来のターゲットが健常者だと考えられてきたのが過ちで、マズローの臨床活動から得られた洞察だと言われれば、ある程度腑に落ちる、と言うことだった。

 そうなのだ。この理論は「成長理論」などではなく、「精神疾病の心理的病因論」だと考えれば良いのである。

 生理的欲求が満たされないならば、人間はただの獣になる。

 安全欲求が満たされないならば、反社会的人格になる。

 所属と愛の欲求が満たされないならば、うつその他や人格障害になる。

 承認と尊敬の欲求が満たされなければ、モンスター人格になる。

 自己実現の欲求が満たされないならば、適応障害になる。

 筆者なりのマズローのリーディングは、かくして精神障害論へと様相を変える。

遺伝か環境か

 心理学における「遺伝(nature)か環境(nurture)か」の最新の理論はサメロフとチャンドラーの「相互作用説(遺伝は環境に働きかけ、環境は遺伝に働きかけて行動が発現する、と言う説)」であるが、話を心理学ではなく常識に置き換えてみると何だかバカバカしくなってくる。

 心理面で遺伝が大きいのは「気質」だと言うが、たとえば我々の5感と言う一見障害されていないと当たり前に感じている諸能力も遺伝である。

 僕は若い頃からパソコンをやっている関係で視力が弱いのだが、この一事を取ってもそんなに難しく考える必要はなく、「環境変動値説」、つまり遺伝諸相の発現が環境変数によって規定されると考えれば大した問題ではないのではないか、と言うのが率直な感想である。

 「遺伝か環境か」の問題は差し置くとして、人間の判断はすべて経験値に依存する。    

思考の現象学

 みなさん、こんにちは。

 みなさんは、「思考(考えること)」について考えたことがおありだろうか?

 有名なのは、デカルトによる「演繹法」とベーコンによる「帰納法」であるが、僕なんかは現実に考える上でこれらの分類にはあまりにも現実性も実践性もないので考え直してみた。

 それらの考えになぜ現実性や実践性がないのかと言うと、常に思考を「法則」と関連付けるパラダイムが根底にあるからだ、と言えよう。

 どうしても「2分法」でと言う方のために、自分が普段営んでいる精神活動を分析してみた。

 そうすると、古典的な考えよりは現実的かつ実践的な思考の分析を導くことができた。

 ひとつは「傍証整合思考」で、もうひとつは「オーダー従容思考」と言うことになった。

 可能性の中から原因を探るときに我々は「傍証整合思考」を使う。

 新しい発見や発想をするときには我々は「オーダー従容思考」を使う。

 そしてどちらにも共通しているのは、それらは「探索過程と採否」を含む、と言うことである。

 図式的に書くとこうなる。

「問題・事象切片の検知」→「傍証整合思考/オーダー従容思考」→「結論の採否」

 とまぁ、定型的なことを言ったが、我々の現実の思考においては概ね両者がどちらも用いられていると考えるべきであろう。

 ところで、「ことばとは何か」を煎じ詰めてゆくと、「弾み(アクセント)とノリ(興不興)の体系」だと言うことになる。しかし、「弾み」には「音」も「波長」もある。「ノリ」には「気分」も「意欲」もある。絵画のようにそれがあまり目立たない人間活動もあるが、総じて言えば「ひとの心」もある意味での「弾みとノリの体系」だと言えなくはないだろうか。

 みなさんもいま一度自分なりに「思考」を考えてみませんか。

心理学15の転回点

 1.生産性の規定因を探ったいわゆる「ホーソン研究」をはじめとする産業心理学説には「社会の中の企業」と言う視点が欠落していたため生産性の規定因を特定できなかった

 2.「絵画で心が分かる」と言う発想は、TPO無視の暴論に近い。特にひどいのは臨床心理学においてエビデンスのないほとんど芸術論のようなマズローの「欲求5段階説」などを高等教育機関の教員でさえ訓詁注釈している有様である

 3.心理学が「認識」を捨て「認知」概念にすがるようになったのには、「認識」と言うものが「事象を思いにフィットさせる自己説得過程」であるため、想定するグランドセオリーを築けなさそうだからである。もうひとつの事情として、AI神話があり、「プロダクションシステム」と言う「データ、ルール、インタープリタ」の可能性を過大視している向きがある。しかし、人間をはじめとする高等動物のコミュニケーションの9割がそれを成すような「訴求力」は「プロダクションシステム」によっては定義できないと言う事実を顧みていない

 4.最近よく引き合いに出されるE.L.ディシの動機付け理論において、「コンピテンシー」と「自己決定感」の2要因理解は肝心の「価値観」を除いて論じられている

 5.学習心理学の諸理論は、そもそもが実験動物主体の理論追求であったせいもあってか、「学習の時点」が必ず報酬を得た時点だと考えているが、我々人間の学習というのは、「その意義に気付いた時点(たとえば、「あれは良かった」などと経験を振り返った時点)」にも強化されると言うのが我々人間の常識であるはずが、すっかり忘れ去られている

 6.学習心理学にはそもそもから「残念賞」な部分がある。「科学」を志向しすぎて「行動主義」が生まれたときに、シカゴ学派のひとたちはラットを使って「学習」について研究をスタートしたが、そのとき気付くべき大きな知見があったのである。それは、野生のラットと飼育されたラットでは「気性」が180度違っている、と言う事実である

 7.いわゆる「ファシズム」はラタネとダーリーが説明に使った3つの要因を引かずとも、イソップ童話の「ネズミの相談」で説明できる

 8.誰も指摘しない「こころの証拠」は、「行為の反照性(存在の内在化)」にあり、純心理的ご褒美に反応するか否かでその存在を推定できる

 9.統合失調症治療には、「セロトニン系5HT2Aレセプター修復剤」を開発すれば良く、うつ病では仕事内の人間関係的報酬を仕事に見合うだけ回復することが予防の鍵となる

 10.社会心理学的事象には柳田国男の「ハレとケ」で説明できる事象が多い。例えば、学校のトイレで大便をした子どもがなぜからかわれるのかは、それらで説明できる

 11.「こころの定義」が心理学では慣用的で明確ではない。筆者の見るところ「こころ」とは、「思い(想念)と認識(想念帰着)の構造体」だと考えられる

 12.「理を知ること」において最も大きなファクターは「表情を読み取る力」であり、いわゆる「知能」と言うのは「確信を持って相手の目線を追い適切に対処する力」のことであろう

 13.学校の成績が示しているものは、「頭の良さ」と言うよりも、「学校の授業を意義深く感じやすいか」と考えた方が良い

 14.コリンズとロフタスの「活性化拡散モデル」は我々の日常生活でと受験勉強でと問題意識のあるテーマの思考でと与太話では記憶のあり方そのものが違う気がするが、ちと乱暴な見解ではないか、それなら、「意識は関係許容圏界面の移ろいからなる」と言った方が同じ屁理屈でもましではないか

 15.感情の本質は、「認知的OK-NGメーター」である

苦楽から考える学習心理学

 昔、僕の知人であるエプスタイン博士は言っていた。人間が常に求め続けているのは「最適な苦楽の均衡」だと。

 それなりに重い言葉だとは思っている。

 従来の学習心理学では報酬なら報酬単独、罰なら罰単独で理説が考えられてきたが、「人生」と言う文脈で考えると、むしろ「苦の中の楽」、「楽の中の苦」と言う方が現実に合ったものの考えではないか、と思う。

 その意味で、我々の人生においてベースラインが「中性」と言うことはあり得ない気がする。それはたぶん、ラットの学習でも同じことであろう。

 「苦の中の楽」は「苦」を忍耐させ、「楽の中の苦」は「楽」をより嬉しいものにする。人間が適応的なうちは、「苦」にも「楽」にも意義づけを見出だす。人間においては、苦楽の別なく「それに意義を見出す」ことが一番のモチベーションになる。これからの学習心理学は、「意義を見出せる個別具体的な条件」を探ることがトレンドになってゆくであろう。

 その耐性の限界を個々人境遇的に超えたとき、精神病理に襲われるのであろう。つまり、「学習」と言う現象はそれ単独の意義を持つ概念ではなくて、精神衛生上の一大トピックであると言わねばならない。それは、「どのような状態のとき、どの情報を学び、どの情報を棄てるか」の問題だと言える。また、任意の行動それ自体の精神的コストも視野に入れるべきであろう。

 で、冒頭のエプスタイン博士の言葉を考え直してみると、「苦楽の均衡」と言うのは、「耐性の限界を超えないように」と読み替えることができる。ただ、人間はたぶん基本的には「楽」志向であることは間違いない。そしてまただぶん、その問いには機械的な答えはない。なぜなら、自分がどう感じているひとにどうされると学び、あるいは拒絶されるかの問題のように思われるからである。

 そうなると、問題は「苦楽・境遇・対人関係のデザイン」がどのようであるので、学習を促進し、あるいはやめるのであろうか、と言う話になる。多くのひとは、子ども時代の勉強の思い出などを振り返ってみると、何らかの考えに辿り着くであろう。また、以前指摘したように生産性を考えるときに「社会の中の企業」、つまり企業活動の社会的財産性を視野に入れないことが心理学における生産性研究のネックであるように、現代サラリーマンの仕事を考える上でも、このように考えることは「報酬と罰」の学習心理学よりも説得力があるだろう。そして結局、このような問いへの答えには即物的な「報酬や罰」だけではなく、「そのひとの人生の履歴の産物」としての「価値観」がかかわってくることを痛感するであろう。

 非常に大雑把な一般論を言うと、比較的短期の学習には「意義」、長期の学習には「苦楽」の関与が大きい気がする。

 これまでの学習心理学は、「苦」と「楽」を切り離して考えられてきた。しかし、有機体の現実を考えたとき、事態は決して単純ではなく、学習は境遇適応上、もう少し大きな目で見る必要がある。

感覚閾の日内変動

 我々の感覚は、夜と昼、空腹時と満腹時、生理学的状態、環境の知覚などの複数の要因で閾値(threshold=感覚による刺激検出可能な刺激の物理的最小値)が変化していると考えるのはおかしいだろうか。

 たとえば、夜聴く音楽とボリュームは同じでも、昼聴いた方が音量が小さいと感じたりすることは、我々の日常にはよくある話である。もしかするとこれは視覚と聴覚の感覚間相互作用をも示唆する知見なのかも知れない。

 ところで、心理学で感覚を問題にするとき、いつもお決まりで論じられるのは感覚刺激の受容における「合理的理由(たとえば、音楽の例だといわゆるS/N比のようなものの仮定)」であろう。

 しかし、もし我々の感覚と言うものが必ずしも合理的にはたらくわけではない、と言うことも再考の余地のあるところなのではなかろうか。

 一心理士として、今日はそんなことを考えている。

ミューラー=リヤー錯視

 いわゆる「ミューラー=リヤー錯視」の説明理論で最も有名なのは「グレゴリーの3次元仮説」であろう。  

 その説では、矢羽根が180°未満だと鋭ければ鋭いほど「コーナーの行き詰まり」と知覚されるので、線分が近くに寄って見え、180°超だと「オープンスペースの入り口」と知覚されるので線分が「こっちこい、こっちこい」と長く見えるのだ、と説明できよう。

 しかしミューラー=リヤー錯視はポンゾ錯視のように線遠近法的な解釈の余地は小さく、読者の皆さんにはたぶん、二次元的な刺激を三次元的に解釈すると言うこと自体に疑念を抱かれる向きも多いであろう。 

 僕はそんな大した仮説ではなく、矢羽根の角度が線分の「そこまで」を曖昧化して過大視・過小視させるのでこの錯視が起こると考えている。それが証拠に矢羽根の閉じたものと開いたものを平行に上下に並べたときに、ともに線分の終点に垂直のスリットを入れるとこの錯視は消失する。まぁ、「位置誤認説」とでも言えるのではと考える。

 ただ、常識的には「伸張と収納」パターンのお話なのでこの錯視は自然な気がする。