本(2021)年1月19日より、新規認定心理士資格取得者のみが心理調査士資格(正式名称:認定心理士(心理調査)資格)を取得可能だったものが、我々のような認定心理士資格のみの既取得者へも心理調査士資格の取得のための受け付けを日本心理学会が開始いたしました。
僕も早速心理調査士資格の申請を行い、4月10日の資格認定委員会にて資格審査を受けることになりました。
詳しくは、日本心理学会の認定心理士(心理調査)資格の案内ページ(こちら)をご覧ください。

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本(2021)年1月19日より、新規認定心理士資格取得者のみが心理調査士資格(正式名称:認定心理士(心理調査)資格)を取得可能だったものが、我々のような認定心理士資格のみの既取得者へも心理調査士資格の取得のための受け付けを日本心理学会が開始いたしました。
僕も早速心理調査士資格の申請を行い、4月10日の資格認定委員会にて資格審査を受けることになりました。
詳しくは、日本心理学会の認定心理士(心理調査)資格の案内ページ(こちら)をご覧ください。
3月13日午後1時より、第30回日本乳幼児医学・心理学会大会(Web開催)にて、「絆としての意識~意識の必然性における親子要因と身体防御要因について~」を発表しました。
要旨は以下の通りです。
鳥類・哺乳類には明白に意識があるが、それは養育過程における「訴求(例えば雛がピヨピヨ餌をねだる)と気遣い(親鳥が餌を取ってきて与える)のキャッチボール」の必然的な結果である。
それらの生物の生態学史的ノードノード(個々の結節)において、それが生体防御にとって有効にはたらくために心理学で言う「強化子(意識過程の発達の要因)」として意識と言うものが維持されてきた生物史と言うものに思いを馳せないでいることはできない。
それゆえ、些か端的ではあるが、意識の必然性として親子要因と身体防御要因を指摘した次第である。
大雑把には以上です。
誰にでも赤ちゃんだった頃があり、その可愛い相貌からは誰ひとりとしてその子が凶悪な犯罪者になることを想像できないでしょう。
物心がつく3歳齢あたりまで精神が不安定な境遇で育った子どもが「悪いこと」をしがちなことは我々の経験値として確かなことです。
大方の大人はここで「認識ミス」を犯してしまいます。「この子のすることには悪意がある」、と。
現実には、このような子どもの「悪いこと」と言うのは、大人が犯罪者を裁くのと同じ「制裁」なり「ジャスティス」と言う心理から起きているわけです。ここを大人が見落としていることによって、彼らは「理解者喪失感」を強め、「正義は報われない」と言う誤学習(メタ認知)をさせられ、孤独な犯罪者の「素質」を植え付けられてゆくわけです。本来であれば、たとえば「ママのどこが悪かったのかしら?」と問い返すような、大人が「自分のどの行為に対して制裁されているのか」「子どもはどう言うジャスティスを下しているのか」を、正確に把握している必要があるのです。
この「善悪」自体と「性善説・性悪説」自体の発生メカニズムは同じであることにお気づきにならないでしょうか。
それは、人間が窮したとき、強い「竹を割ったような答えを求める症候群(白黒をつけたがる傾向)」に陥りやすいことによって起きる社会現象だと言う意味でそう思うわけです。
この「制裁心」なり「ジャスティス」と言うのは、それに分があれどなかれど、一種のそのひとなりの「正義の実行」なのは言うまでもありません。同じ「正義の実行」なのに「善」になったり「悪」になったりする事象については、個別具体的に仔細に考慮されなくてはなりません。そして恐らく、本来の「善悪」とは、その判断にどれだけの分があるかの問題なのでしょう。
人間は仏像ではありません。彫ればその通りの仏像になるわけではありません。常習的犯罪者には、「罪悪感」が欠けているのです。それは、人間としての対等意識が育っていないことを意味しています。
子どもの頃にそのような「素質」を植え付けられたとしても、職業的あるいは常習的犯罪者に至るためには、もう1ステップ必要です。それは「人一般への憎悪・色眼鏡」や「通念上理解しがたい変世界」がその者の心に醸成されることです。
したがって、犯罪者の更生を促進するには、自身の反社会的な「メタ認知」に疑念を抱かせ、ステップワイズ(徐々)にこれを消去してゆく地道な取り組みが必要かと思われるのである。
なお、筆者の学部入試の小論文の課題「学校の問題児は家庭、学校、コミュニティのいずれで形成されるのか」と言う問いの現在の筆者なりの答えは、最もその子が自我関与(心のよりどころに)しているのがこれら三者のいずれかであれば、そこで上述のような処遇を受ければいずれであっても問題児になり得る、と言うことである。
(特に社会構造と人格のマッチング、心理的深浅の問題のように)犯罪にはいろいろな水準で起きるものがあり、そのすべてを上記の理屈で説明するのは不可能ですが、これも一種の「犯罪心理学入門」として理解されると良いと思います。
自分の専攻学科である関係上、このような内容の論文発表は過去2回、日本心理学会大会にて行ってきた。
表題の問題について、簡単に筆者の見解を述べておく。
基本的に「意識とは何か」については繰り返し指摘してきた通り、「存在感覚」だと言えるように思う。
筆者なりの意識の発生メカニズムの基本は哺乳類および鳥類、つまり親子関係が出生後重要になる生物に特徴的なもので、親子の関係維持の必要から生じるものと考えている。
したがって、意識の発生要件には、「依存性をベースとした関係の継続性の必要」が最大のファクターだと考えて良いように思う。
そして、それを前提としたその存在の内面的継続性・融通性(行為の調節性)が認識できることを以て「ものごころがついた」と認識しうると言えようかと思う。インデックスとしては「行為の自在性」が最たるそれであろう。なぜそのような「制御感」が直接のディフェンス行為がなくても生まれるのかと言えば、「養育-模倣-巣立ち」の過程を経る動物では、そこから「意識」が「迷い-意思決定」を経て給備されると考えるのが自然であろう。
意識が一番端的に見られる現象は、「自分を庇う」と言う行為のように思われる。なので、同じ動物でも身体障害のある個体の方が身体障害のない個体よりも「意識的になる」であろう。このように、基本「傷つけられることから守ること」に意識のレゾンデートルがあるように思われる。究極にはこの一点に尽きるのではないか。
では、は虫類、両生類ではどうだろうか?たぶん、彼らには意識が「ない」のではなく、未分化なだけかと思われる。
傷つかないための意識なのに、人間はなぜ傷つけ合うのか…いまのひとびとは一方的に思うことに慣れすぎている…
まとめると、「意識」はそれがいかに低次なものであっても「予期せぬ障害-困惑-目論見的対処」により醸成される。なので、おぼろげながらにも自己対象視ができている状態を「意識」と呼ぶのであろう。なぜ人間が「意識的存在」の最右翼なのかと言えば、おそらく出生時に最も未熟な状態で産まれてくるゆえではないだろうか。
以上、心理学で有名な「モーガンの公準」から一歩出たところで意識を考えてみた。
Key Words : 障害 その背景としての環境多様性
「マズロー理論」、すなわち「生理」・「安全」・「所属と愛」・「承認と尊敬」・「自己実現」のいわゆる「欲求5段階説」は果たして何のために考えられたのであろうか、と言う疑問に筆者長年思いあぐねていた。
エビデンスがあってそう言ったのではないとか、あまりにも芸術的だとかの批判も耳を傾けるべきところは多かった。
もしこれが「人間の心理的成長」にかんする理論だと言われれば、やはり僕の中には強い反発がある。
しかし、最近気づいたのは、この「マズロー理論」は本来のターゲットが健常者だと考えられてきたのが過ちで、マズローの臨床活動から得られた洞察だと言われれば、ある程度腑に落ちる、と言うことだった。
そうなのだ。この理論は「成長理論」などではなく、「精神疾病の心理的病因論」だと考えれば良いのである。
生理的欲求が満たされないならば、人間はただの獣になる。
安全欲求が満たされないならば、反社会的人格になる。
所属と愛の欲求が満たされないならば、うつその他や人格障害になる。
承認と尊敬の欲求が満たされなければ、モンスター人格になる。
自己実現の欲求が満たされないならば、適応障害になる。
筆者なりのマズローのリーディングは、かくして精神障害論へと様相を変える。
心理学における「遺伝(nature)か環境(nurture)か」の最新の理論はサメロフとチャンドラーの「相互作用説(遺伝は環境に働きかけ、環境は遺伝に働きかけて行動が発現する、と言う説)」であるが、話を心理学ではなく常識に置き換えてみると何だかバカバカしくなってくる。
心理面で遺伝が大きいのは「気質」だと言うが、たとえば我々の5感と言う一見障害されていないと当たり前に感じている諸能力も遺伝である。
僕は若い頃からパソコンをやっている関係で視力が弱いのだが、この一事を取ってもそんなに難しく考える必要はなく、「環境変動値説」、つまり遺伝諸相の発現が環境変数によって規定されると考えれば大した問題ではないのではないか、と言うのが率直な感想である。
「遺伝か環境か」の問題は差し置くとして、人間の判断はすべて経験値に依存する。みなさん、こんにちは。
みなさんは、「思考(考えること)」について考えたことがおありだろうか?
有名なのは、デカルトによる「演繹法」とベーコンによる「帰納法」であるが、僕なんかは現実に考える上でこれらの分類にはあまりにも現実性も実践性もないので考え直してみた。
それらの考えになぜ現実性や実践性がないのかと言うと、常に思考を「法則」と関連付けるパラダイムが根底にあるからだ、と言えよう。
どうしても「2分法」でと言う方のために、自分が普段営んでいる精神活動を分析してみた。
そうすると、古典的な考えよりは現実的かつ実践的な思考の分析を導くことができた。
ひとつは「傍証整合思考」で、もうひとつは「オーダー従容思考」と言うことになった。
可能性の中から原因を探るときに我々は「傍証整合思考」を使う。
新しい発見や発想をするときには我々は「オーダー従容思考」を使う。
そしてどちらにも共通しているのは、それらは「探索過程と採否」を含む、と言うことである。
図式的に書くとこうなる。
「問題・事象切片の検知」→「傍証整合思考/オーダー従容思考」→「結論の採否」
とまぁ、定型的なことを言ったが、我々の現実の思考においては概ね両者がどちらも用いられていると考えるべきであろう。
ところで、「ことばとは何か」を煎じ詰めてゆくと、「弾み(アクセント)とノリ(興不興)の体系」だと言うことになる。しかし、「弾み」には「音」も「波長」もある。「ノリ」には「気分」も「意欲」もある。絵画のようにそれがあまり目立たない人間活動もあるが、総じて言えば「ひとの心」もある意味での「弾みとノリの体系」だと言えなくはないだろうか。
みなさんもいま一度自分なりに「思考」を考えてみませんか。
月の錯視やポンゾ錯視を考えるときに重要と思われるのは、「遠近率の恒常性」だと言えるであろう。
決まった遠近感における対比物件の見かけ上の大きさは、(対比物件の距離)/(遠近勾配の小ささ)に依存すると考えるのが良い。
1.生産性の規定因を探ったいわゆる「ホーソン研究」をはじめとする産業心理学説には「社会の中の企業」と言う視点が欠落していたため生産性の規定因を特定できなかった
2.「絵画で心が分かる」と言う発想は、TPO無視の暴論に近い。特にひどいのは臨床心理学においてエビデンスのないほとんど芸術論のようなマズローの「欲求5段階説」などを高等教育機関の教員でさえ訓詁注釈している有様である
3.心理学が「認識」を捨て「認知」概念にすがるようになったのには、「認識」と言うものが「事象を思いにフィットさせる自己説得過程」であるため、想定するグランドセオリーを築けなさそうだからである。もうひとつの事情として、AI神話があり、「プロダクションシステム」と言う「データ、ルール、インタープリタ」の可能性を過大視している向きがある。しかし、人間をはじめとする高等動物のコミュニケーションの9割がそれを成すような「訴求力」は「プロダクションシステム」によっては定義できないと言う事実を顧みていない
4.最近よく引き合いに出されるE.L.ディシの動機付け理論において、「コンピテンシー」と「自己決定感」の2要因理解は肝心の「価値観」を除いて論じられている
5.学習心理学の諸理論は、そもそもが実験動物主体の理論追求であったせいもあってか、「学習の時点」が必ず報酬を得た時点だと考えているが、我々人間の学習というのは、「その意義に気付いた時点(たとえば、「あれは良かった」などと経験を振り返った時点)」にも強化されると言うのが我々人間の常識であるはずが、すっかり忘れ去られている
6.学習心理学にはそもそもから「残念賞」な部分がある。「科学」を志向しすぎて「行動主義」が生まれたときに、シカゴ学派のひとたちはラットを使って「学習」について研究をスタートしたが、そのとき気付くべき大きな知見があったのである。それは、野生のラットと飼育されたラットでは「気性」が180度違っている、と言う事実である
7.いわゆる「ファシズム」はラタネとダーリーが説明に使った3つの要因を引かずとも、イソップ童話の「ネズミの相談」で説明できる
8.誰も指摘しない「こころの証拠」は、「行為の反照性(存在の内在化)」にあり、純心理的ご褒美に反応するか否かでその存在を推定できる
9.統合失調症治療には、「セロトニン系5HT2Aレセプター修復剤」を開発すれば良く、うつ病では仕事内の人間関係的報酬を仕事に見合うだけ回復することが予防の鍵となる
10.社会心理学的事象には柳田国男の「ハレとケ」で説明できる事象が多い。例えば、学校のトイレで大便をした子どもがなぜからかわれるのかは、それらで説明できる
11.「こころの定義」が心理学では慣用的で明確ではない。筆者の見るところ「こころ」とは、「思い(想念)と認識(想念帰着)の構造体」だと考えられる
12.「理を知ること」において最も大きなファクターは「表情を読み取る力」であり、いわゆる「知能」と言うのは「確信を持って相手の目線を追い適切に対処する力」のことであろう
13.学校の成績が示しているものは、「頭の良さ」と言うよりも、「学校の授業を意義深く感じやすいか」と考えた方が良い
14.コリンズとロフタスの「活性化拡散モデル」は我々の日常生活でと受験勉強でと問題意識のあるテーマの思考でと与太話では記憶のあり方そのものが違う気がするが、ちと乱暴な見解ではないか、それなら、「意識は関係許容圏界面の移ろいからなる」と言った方が同じ屁理屈でもましではないか
15.感情の本質は、「認知的OK-NGメーター」である
感情とは、「認知的OK-NGメーター」である。