t検定と分散分析のロジック

 
 2つの平均値の差の検定にt検定を、3つ以上の平均値の差の検定に分散分析を用いることは、心理屋なら誰でも知っていることである。

 しかし、大学などの高等教育機関では煩瑣な検定の手続きを教わりはするが、なぜそうするのかはなかなか教えてもらえない、と言うのが現状であろう。

 そこで、今回はt検定と分散分析に共通するものの考え方、つまりロジックについてお話させていただきたい。

 平均値が少しの違いでも、分散(データのばらつき)が非常に小さければ、それらの平均値の差が統計的に有意(有効)になり、平均値が大きく隔たっていても分散が非常に大きければ、n.s(not significant 有意ではない)なことがあるように、平均値の差の検定をする場合には、平均値の大きさの差と分散の小ささの2つの要因についての正確な情報が欠かせない。

 (標本数が同じなどで)簡素化されたt検定の式を見ていただくと、それは非常にはっきりする。

 分散分析でもそれは同じことで、手続きを知っているひとから見れば、分散が小さな要因探しが大きなテーマになっていることに気付かないであろうか。

 平均値自体はt検定と同じ扱いになり、要因数の効果を相殺しながら分散の小さな要因探しをするのが分散分析の本質である。そのさいに、平均値のそれとしての強さと平均値の差の強さを規定するのが分散なのである。

 そのように見てくると、t検定も分散分析もあるグループの分散の小ささに注目しているわけである。要するに平均値の差の検定にはそう言うロジックが生きているのである。

理の矛盾のまとめ~行動主義とイデア論等~

 
 行動主義は「目に見える行動」を対象にすれば、それが科学の要請する客観性・公共性を担保できる旨をその唱道者であるJ.B.ワトソンに言われて著しくラディカルな「心理学」がもたらされた。

 しかし、現場の研究者たちは口にこそは出さないが、その当の「行動」は少なくとも現実的には2義以上の性格を持つ、すなわちその「行動」は研究者の推測上のものか、主体の現実のものか、或いは…と言う矛盾を孕んでおり、そのどこが客観的なのか、と指摘せざるを得ない。なぜこのことが問題にならないのかと言うと、研究者たちにとっては単なる推測上のことが現実にも起きるのかにしか関心を払っていないためである。

 プラトンが提唱した「イデア論」によると、「真実在はイデアだけ」で、それは心の中(脳裡)にしかないと言われている。

 たとえば真円とか正三角形と言ったものは作図をすれば必ず誤差が出ると言う。不思議なことに、みんなはこれを冗談だと解してはいない。なぜなら、真円とか正三角形と言うもの自体、すでに心の中(脳裡)でしてからが現実に描きうるわけではないからである。

 このような社会的来歴を持つ「イデア」と言う観念は、その誤解から解かれるために、「理念」と言い換えられるべきだと考えている。「イデア」は「形而上存在」と呼ぶことにしたい。ユークリッド幾何学を参照するまでもなく、線分とか点とかは現実には非実在である。このように、「形而上存在」と言うのは、本当は真実在どころではなく、真非実在(単なる理)である。このことを分かりやすく言っておこう。「理と言うものは目に見えない(理論の中にしか存在しない)」のである、あるいは「実在しないのはイデアだけ」、と。したがって当然、行動主義の追い求めるものも「目に見える」わけではなく、そこに我々が見るものはある種の特異な「理の現れ」であるに過ぎない。この理解は、ものをものとして定義できないと言う人間の感性認識の限界の問題も同時に語っている…感性は感性以上には認識できないのである(ただし、ユークリッド幾何学の難点を克服したければ、線分の内側・外側と言う認識を与えれば良い…「含まれている/含まれていない」は計算結果を左右しない…このことを「包含関係は範囲・面積にとって明晰である」と言うこととする)。

 最後に「因果律」についての誤解を解いておこう。特にヘーゲル以降ひとびとは因果律が適用されるべきではないような事象にも因果律を適用し、それを単なる事象継起程度の意味でしか用いなくなった憾みがある。しかしそれは誤解である。

 因果律で説明されるべき継起とは、「それがなかったらそれは起こらなかった」と言うくらい強い継起的関係性(焦点と像の関係)について言及するときに用いるべき概念なのである。ある哲学者によると、砲弾による要塞の破壊は、上司の命令によるとも言えるし、砲弾があったことによるとも言えると言って因果律の相対性を説き、それは一種の擬人化だとさえ言うが、別に上司の命令がなくても別の砲撃手によって砲弾を撃った場合でも要塞は破壊されうるので、前者ではなく後者の(とある砲撃手の手元に砲弾があってその砲撃手に砲撃の意志があった)方が「因果律」と呼ばれるにふさわしいのである。

 なお、現実から予想通りではあるが、このようなことを見るにつけ、人間の学習的洗脳性は高いと言わざるを得ない。

同じ「コミュニケーション」でも…

 
 内向型の人間にとっての「コミュニケーション」とは、「その話はどうか」と言う意味での「(心の投企としての)作品」である。
 
 これに対し、外向型の人間にとっての「コミュニケーション」とは、「その話で人間関係はどうなるか」と言う意味での「(心の投企とは関係のない)話題」である。
 
 同じ「コミュニケーション」でも、性格によるその機能の違いを弁えないでそれを行っても、“It rains cats & dogs.(破壊的コミュニケーション)”になる。

ショートショート「一般社会からどうとはされていない閉鎖社会の人間の特質」

 
 社会的位置づけが何れであるにせよ高圧的で異常にプライドが高い。

 それは当人の特殊属性感に比例する。

 差別や偏見、ファシズムの土壌にはそのような心理的背景がある。

心理学にからむ哲学的問題について(第87回日本心理学会大会発表ポスター)

 
 昨日(2023年9月15日)発表したポスターです。なんか、どうでも良いことを考えているようで…(画像の文字が小さくて読めない方はこれらの画像をjpg保存して拡大してお読みください)。

●発表まとめ

 「心身問題」
 身体は心へのもの(環境)の文化的生態学的連鎖的翻訳系である。こう考えると「心身二元論」は回避できる(系なら環境にいくらでもある)。

 「主観-客観、存在の問題」
 これらは観点の問題ではなく、認識の不可抗力性の問題である。

 「私性問題」
 一次的には個体の時間的持続存在性の必要により要請されてくる。

「自閉症」の問題圏

 
 「自閉症」は一般に「対人関係のぎこちなさ」をその主訴とする。

 多くの心理学者は自閉症の原因を「脳の問題」であるが、脳の何が問題であるのかは不明である、と考えている。

 筆者は人間の対人認識と言うものが、他の動物と同様、認知と感情がセットとなってはたらく結果だと見ている。要するに、遺伝的には認知と感情は区別されることなく組み込まれている、と考えている。

 これが何らかの理由で機能不全になった結果が、「自閉症」と言う診断になるのだと思う。したがって、すべての自閉症が遺伝的とは言い切れないかも知れない。

 しかし、もし心理学者の多くが自閉症を「脳の障害」だと言っている前提に立つならば、筆者はその原因解明には、思ったほどの労力をかけずにできてしまうのではないか、と提言させていただきたい。

 もし自閉症が認知機能の問題だとするならば、それは哲学で言う「即自」よりは「対自」認知の問題であろう。だとするならば、その錬成としての「自己概念」の発達に顕著な影を落としているはずである。

 しかし、そこに問題の所在を見つけられなかったとすると、可能性のある認識は、「感情受容(共感性)の障害」一択に絞られてくる。これをみるのには、養育者の感情表出に対する自閉症児の応答性を見ていれば良い。

 しかし、自閉症の症状は多彩なので、個別具体のケースごとに原因を想定しなければならない事態も視野に入れておかねばならない。

 その場合、「環境の欠損(栄養、対人関係の狭さ、そのあり方のゆがみなど)」と言う非遺伝的な要因も含めて、「自己概念」に問題はないか、他者(養育者)の感情受容に問題はないか、と言う3つの視点から自閉症を見て行く必要があるように思われる。

 いずれであるにしても、大勢としてか個別具体としてか、自閉症の原因究明についてのポイントについて述べてみた。

筆者からみた「ラザラス-ザイアンス論争」

 
 読者の方は、「ラザラス-ザイアンス論争」と聴いても何のことを言っているのか分からないと言う向きの方が多いかと思うので、まずはこの論争の概要を示し、次いで筆者の見解を表明したい。なお、この議論の筆者なりの結論は、「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」の参考にもなると思うので、それも念頭に置いておかれたい。
 
 1980年代に、ラザラスは、感情が起きるに当たっては、必ず認知的評価が必要だと主張した。これに対して異を唱えたのがザイアンスで、彼は感情と認知はそれぞれ独立のシステムで、感情は認知的評価を伴わずとも生起しうる、と噛みついたのである。

 これが厄介なことに、両説ともそれぞれに支持する実験的知見があって、ラザラスの説は認知心理学の治療理論において実証されており、ザイアンスの説にも「単純接触効果(刺激に触れただけでボジティヴな感情が生起する)」と言う知見があったのである。
 
 一応ここで、これに関連する「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」もおさらいしておこう。「泣くから悲しい」の標語でも有名な「ジェームズ=ランゲ説」は、感情が惹起されるためには、それに先行する身体反応が必要だと考えた。より常識に近いと思われるのが、これに対する「キャノン=バード説」で、感情が生起した後に身体反応が現れる(悲しいから泣く)、と主張した。

 ここではお話を「ラザラス-ザイアンス論争」に限るが、その結論は「ジェームズ=ランゲ説-キャノン=バード説論争」にも適用されるだろうと言う含みを持たせておく。

 筆者の考えでは、感情の生起に認知的評価が必要かどうかも論じないし、いわんや感情と認知がそれぞれ独立のシステムかどうかについても何も語るつもりはない。

 ただ筆者の思うところでは、感情の生起にとって必要なのは「心理的構え(psychological set)」であり、「ラザラス-ザイアンス論争」は、一種の抽象に溺れた論争だったに過ぎないように見える。

 たとえば筆者はこの世で一番雷様が怖いと思っている。雷様が鳴り出すと、怖くて震え出す。そして現実に雷様が附近を直撃したりすると、ひどくビックリして胃がひっくり返るほどである。

 しかしもし、筆者が雷様がまったく鳴っていない状況でそれ相当の音を聴いた場合にはどうであろうか。筆者はそれを誰かが家で転倒したと解するかも知れないし、附近の住宅が崩落したと解するかも知れない。少なくとも、雷様の直撃とは明らかに異なる反応をするだろう。つまり、恐らくそれで自分の胃がひっくり返る思いはしないだろう。

 あるいは映画を見ている。話の筋から主人公がさえない人間で、何をやっても周囲から叱責されると言う伏線が筋として与えられていて、主人公はいつも泣いているとしよう。ところが映画のクライマックスではたまたま主人公にできて周囲の誰にもできない問題が持ち上がり、一躍主人公は賞賛されたとしよう。我々は「主人公はさえない奴」と言う心理的構えを持ったがために、最後に賞賛される主人公を見て落涙するかも知れない。

 人間は、いつでも何らかの心理的構え(日常の心の持ちよう)を無意識に持っている。つまり、特に何も意識していないと言う構えのときは、取り敢えず「何それ?」くらいの反応はするだろう。

 と言うわけで、僕なりにみた「ラザラス-ザイアンス論争」は、ラザラスなりザイアンスなりのいずれかが正しいと言うわけではなくて、感情的反応とか胃がアップセット(動転)するとかの反応には、必ず何らかの心理的構えが前提としてあり、必要なように思うわけである。恐らくその中には認知的(記憶的)なものも感情的なものもあるはずである。

 恐らくその意味で、「ラザラス-ザイアンス論争」は、命題の立て方そのものに問題があったのではないかと思われるのである。いったい、「実験」とか「実証」とは何なのであろうか。

心理系その他の資格の乱立についての懸念

 
 現在心理系その他の資格の乱立状態が続いている。

 自分の調べたところでは、心理系の資格だけでも50個くらいある。

 資格を与える側にとっては、資格の賦与者がマウントを取れて、ただの良い儲け話に過ぎないように思う。

 この状態で僕が抱く懸念は以下のようなものである。

 ほとんど名もない資格でも、資格保持者であることを良いことに、犯罪行為が濫発するのではないか、と言う懸念である。

 これには司法も手を焼く案件が多くなると予想される。

 ただでさえ、人間的かかわりに性的なものがあり得ないと言うことが不自然なのに、職業資格家はそれを「倫理」として掲げることでそのようなかかわりを排除する。そのため「クライエント」は通常の人間関係とはおよそかけ離れた不自然な人間関係を「カウンセラー」との間に持つことになる。

 一体、本当の「心の救い」とは何なのであろうか。

 こうした現状の上に、資格発行団体の金儲け目的でしかない心理系その他の資格の保持を良いことに、犯罪行為に及ぶ「資格保持者」が続出してくることは目に見えている。

 たとえば個人情報ひとつ取っても、表向きは「インフォームドコンセント」を理由に得た個人情報を裏名簿「業者」に売って私腹を肥やす「資格保持者」はいくらでも出てくるだろう。公式の統計によってさえこの国の60人に1人が麻薬に手を出していると言う。「治療」と称して違法薬物を勧める「資格保持者」もいくらでも出てくるだろう。

 近頃流行っているのは、「犯罪者心理にない者による犯罪」である。その意味で言えば、この手の犯罪は、「犯罪者心理にない者の犯罪」の範疇に入るであろう。

 金儲けのための資格作りには法的規制が必要だと感じる次第なのである。

楢山節考(ならやまぶしこう)

 
 「楢山節考(ならやまぶしこう)」と聴いて、「それ、何のこと?」と思う若者が多いかと思う。ある世代以上の方ならお分かりの通り、早い話が「姥捨て山」のお話である。

 僕は現代の老人ホームにその典型を見る思いがする。このことについて思うところがあるので、それについて述べてみたい。

 僕がとても不思議に思うのは、どうして年輪を重ねた人生の先輩であるお年寄りに、人生の辛酸とか含蓄とか経験について思う存分語っていただいて、若者世代への心の糧をつなぐような活動がこの国にはないのか、と言うことである。

 子どもが老人ホームを「慰問」するとき、まるでそれが当たり前のように子どもたちがただ歌って踊って、それに老人たちが拍手する姿しかないのは、本当に社会の財産の持ち腐れのような気がする。そのこと自体がどれほど老人の精神衛生上プラスなのか、甚だ疑問である。

 これは僕だけの妄想ではない。心理学者の下仲順子さんによれば、高齢者は概して若者よりもものごとの理解も良いし、要領も答え方も良く、若者よりずっと芯がありますよ、と言う。

 少なくとも経験値と言うことで言えば、我々のような若造(筆者は58歳である)が老人に勝てる道理がない。ところが、それが社会の財産になっていないことをとても悲しく思う。

 幼稚園児に人生を語ることがお年寄りに苦手であろうはずがない。彼らは何世代もの子どもたちを育ててきたのだから。それが小学生、中学生…となれば話はなおのことではないか。

 だから現代の老人ホームを見て、「楢山節考」をそこに見る気がしてならないのである。長い人生経験がものを言わずにいるのは、金・銀・ダイヤモンドをドブに捨てるようなものなのではないだろうか。

 

統合失調症の心理的治療

 
 僕は以前書いたように、カウンセラーではない、したがってこの世(在野)に必要ではない心理士である。

 その無価値な心理士として考える「統合失調症の心理的治療」の具体について触れておきたいが、その前にひと言だけ断っておく。

 統合失調症については、心理的治療よりも精神医学的治療、すなわち腹側淡蒼球などの薬物的な代謝異常の是正が優先する。そのドラスティックさにおいては、心理治療よりも薬物治療の方が根本的な治療たりうるからである。

 さて、統合失調症は多くの場合、「意味付けされた幻聴」をその主訴とする。それで僕は統合失調症のことを「囚人症候群(別名アナザーパイロット症候群)」と呼ぶことを提案している。その意味で、統合失調症は「理解不能の病」ではない。

 多くの医師が言うように、統合失調症患者ではこの「意味付けされた幻聴」が「現実」だと認識していることが、「病識の欠落」なのだと問題視しているわけである。

 ならば、統合失調症患者に治療者が手取り足取りして、「それはあなたのおかしなところです」と一々指摘して、「普通はそんな認識は持ちません」と言う明確なメッセージを与え、病識を持たせるところから心理的治療は開始されるべきである。

 そしてその先に進むためには、その症状に意識的に対決・無視させるよう患者を導くことこそが、真の意味での統合失調症の心理的治療になるはずである。

 これは昔からある「ロゴセラピー」と言う手法である。

 果たして、「公認心理師」は、こう言う治療を現実に行っているのであろうか。