ユークリッド幾何学批判

 
 ユークリッド幾何学には、人間の認識と相容れない部分があるのでそれを質したい。

 点と線の定義において、それらは面積を持たないと仮定しているが、面積を持たない点や線は実在しない。

 こう指摘するとすぐにひとびとはイデア論の話に逃げる。点も線も真円も正三角形も実描に対するイデアであって、現実には描き得ず、なので真実に実在するものはイデア(仮構)だけなのだ…と。

 よくよく考えてほしい。この話は単なるレトリックなだけなのではないか、…と言うのも、点や線や真円や正三角形は現実に描き得ず…と言っておきながら、我々の脳裡でだけは描き得る、と言う…ちょっと待ってくれよ、そんなの我々の脳裡でさえ描き得ないではないか、…と言うお話になる。

 ユークリッド幾何学…延いてはイデア論そのものに矛盾があるのである。

 少し真面目に考えると、どこからそんなことを発明したのかは知らないが、点や線や真円や正三角形ほど真実には実在しえないものはない…だがみんなはそれ(=イデア)だけが真実に実在するのだと言う。

 ユークリッド幾何学自体の限界も含めて、イデア論に潜む矛盾についてご一考を迫っておく次第である。

理の矛盾のまとめ~行動主義とイデア論等~

 
 行動主義は「目に見える行動」を対象にすれば、それが科学の要請する客観性・公共性を担保できる旨をその唱道者であるJ.B.ワトソンに言われて著しくラディカルな「心理学」がもたらされた。

 しかし、現場の研究者たちは口にこそは出さないが、その当の「行動」は少なくとも現実的には2義以上の性格を持つ、すなわちその「行動」は研究者の推測上のものか、主体の現実のものか、或いは…と言う矛盾を孕んでおり、そのどこが客観的なのか、と指摘せざるを得ない。なぜこのことが問題にならないのかと言うと、研究者たちにとっては単なる推測上のことが現実にも起きるのかにしか関心を払っていないためである。

 プラトンが提唱した「イデア論」によると、「真実在はイデアだけ」で、それは心の中(脳裡)にしかないと言われている。

 たとえば真円とか正三角形と言ったものは作図をすれば必ず誤差が出ると言う。不思議なことに、みんなはこれを冗談だと解してはいない。なぜなら、真円とか正三角形と言うもの自体、すでに心の中(脳裡)でしてからが現実に描きうるわけではないからである。

 このような社会的来歴を持つ「イデア」と言う観念は、その誤解から解かれるために、「理念」と言い換えられるべきだと考えている。「イデア」は「形而上存在」と呼ぶことにしたい。ユークリッド幾何学を参照するまでもなく、線分とか点とかは現実には非実在である。このように、「形而上存在」と言うのは、本当は真実在どころではなく、真非実在(単なる理)である。このことを分かりやすく言っておこう。「理と言うものは目に見えない(理論の中にしか存在しない)」のである、あるいは「実在しないのはイデアだけ」、と。したがって当然、行動主義の追い求めるものも「目に見える」わけではなく、そこに我々が見るものはある種の特異な「理の現れ」であるに過ぎない。この理解は、ものをものとして定義できないと言う人間の感性認識の限界の問題も同時に語っている…感性は感性以上には認識できないのである(ただし、ユークリッド幾何学の難点を克服したければ、線分の内側・外側と言う認識を与えれば良い…「含まれている/含まれていない」は計算結果を左右しない…このことを「包含関係は範囲・面積にとって明晰である」と言うこととする)。

 最後に「因果律」についての誤解を解いておこう。特にヘーゲル以降ひとびとは因果律が適用されるべきではないような事象にも因果律を適用し、それを単なる事象継起程度の意味でしか用いなくなった憾みがある。しかしそれは誤解である。

 因果律で説明されるべき継起とは、「それがなかったらそれは起こらなかった」と言うくらい強い継起的関係性(焦点と像の関係)について言及するときに用いるべき概念なのである。ある哲学者によると、砲弾による要塞の破壊は、上司の命令によるとも言えるし、砲弾があったことによるとも言えると言って因果律の相対性を説き、それは一種の擬人化だとさえ言うが、別に上司の命令がなくても別の砲撃手によって砲弾を撃った場合でも要塞は破壊されうるので、前者ではなく後者の(とある砲撃手の手元に砲弾があってその砲撃手に砲撃の意志があった)方が「因果律」と呼ばれるにふさわしいのである。

 なお、現実から予想通りではあるが、このようなことを見るにつけ、人間の学習的洗脳性は高いと言わざるを得ない。

廣松「物象化」論にみる錯認

 
 まず、筆者が廣松の言うところの「物象化」が起きる単純な理由をテーゼの形で示しておきたい。

 “ことばがもの(森羅万象)をもの化する”

 つまり、筆者が言いたいことは、いわゆる「物象化」と言う意識のはたらきは、「意識対象-意識作用-意識内容」と言う「カメラモデルの世界観」などと言う大袈裟なところによって生じるわけではなく、ことばそのものがもの的性格を持つことによって起きる普遍的事実によって支持されている、と言うことである。
 
 タイトルの割には短い文章になったけれども、要するにそう言うことである。

廣松「として等値化的統一」は普遍ではない

 
 この問題を論ずるに当たって、「認識」のさらに内奥にある「理解」を定義しておこう。

 「理解」とは「どう言うことかが分かること」である。
 
 まず、廣松の「として等値化的統一」が成立する認識場面は、実はかなり限られていて、「特定詞をそれと同じ系の具体詞として」理解する場合に限られる。

 「これは草である」、「彼は音楽家である」、「美しいとは凜としていることである」…これらの場合には、そこに廣松が指摘した「として等値化的統一」が現実問題として実在する。

 しかし、「彼は踊っている」とか、「この花は美しい」、…これらの場合ではどうであろうか。どう考えても「彼」と「踊る」が、「この花」と「美しい」が「等値化的」に「統一」されようがない。なぜならそれらは、「別の値(代入できない値)」だからである。

 いわゆるところの「SはPである」と言う「判断の原型」を止めてはいない(カテゴリーミスマッチがある)ので、そこに「等値化的統一」は認められず、ただ単なる理解だとしか考えようがない。

 超文法的に考えてみると、廣松が「四肢的認識構造」を「対他的判断成態」と見ていることが、それ自身大きなアポリアに基づいていることがはっきりする。

 判断と言うものがすべて対他的なものだと言う考え方そのものが極端に過ぎる。「これは木だ」と認識するのに実情として「あれは草だ」と言うことを別段要請するわけではないからである。

 それで筆者は考え直してみたのであるが、「判断」と言うのは「として等値化的統一」だと思ってしまえば、そこからは必ず水漏れする事例の大群を目にすることになる。実態として「として等値化的統一」が実在する判断と言うのは、かなり限られているわけである。たとえば、我々は知覚の前面には現れない「空気」をどうして知ることができるのか。

 彼も多くの哲学者同様、「判断」を「SはPである」に矮小化しているわけである。

 では「判断」とは何のことを言うのであろうか。

 筆者の考えでは、「判断」と言うのは「認識上の加減算」のことを言うのだと思っている。

 その「加算形」は「認識の賦与および付加」のことであり、「減算形」は「認識の控除および否定」であると考えれば、かなり話はシンプルになるし、理解もしやすい。なぜならば、どうして我々が重文・複文を理解しづらいかも説明できるし、さらに、話しているときに文の結びをどの言葉にするかで迷うことも良くあることも説明できる。これらは、言葉の「加減算のもつれ」によっていることは言を俟たない。

 これに「推移律」を加えると、言語の神経学的基盤にも言及することができる。概念が制約される器質障害を突き止める課題に直面するだろう。それは「想像力」の障害なのかも知れない。

 記号論理学は「関係性だけで」できているために現実の言語理解には役立たないのである。

 このような筆者の考えを理解いただければ、筆者がチョムスキーの「生成文法理論」にも反対なのは容易に分かっていただけるだろう。それは、日本語には男性形・女性形・中性形はなくてヨーロッパ語にはあると言ったように、言葉と言うものは天与のものと言うよりは造作的なものだからである。

 廣松の哲学認識と筆者の哲学認識の違いは相当数に上るが、それらについては黙っていることとしたい。

ライプニッツの「微小知覚」の本来

 
 ライプニッツは、「雨が一滴落ちても聞こえないが、たくさん降ると聞こえる」ことについて、一滴の雨を「微小知覚」だと考え、「微小知覚の集まり」のことを可聴音なのだと理解した。

 これは正しくはない。雨が一滴落ちただけでも聞こえる大粒の雨もあるし、雨の一滴が十分小さければ、そのような雨がどれだけ集まっても聞こえるわけではないからである。また、雨粒同士の空中衝突音についてもそれが言える。雨粒の空中衝突音が聞こえるためには、たくさんの雨粒が強く空中衝突している必要がある。

 想像してほしい。2つのトランペットをまったく同じピッチでまったく同時にまったく同じ強さで吹いたとする。音は1つのトランペットのときの音量の2倍になるだろうか。ならないのである(ただし、ピッチが僅かでもずれていれば音幅が強烈に知覚される)。

 つまり、「音」は加算的なものではなく、並行的なものである。

 しかし、彼のこの考えは、「周波数」と言う現象を考えるときに深い意味を持っている。

 「周波数」と言うものは、一般に物質の振動とか震えだと理解されていると思うが、実は突き詰めて行くと、「物質(帯)の鼓膜への衝突音(もちろん超低周波や高周波は聞こえない)」だと言うことに気付く。

 このように考えたときにはじめてライプニッツの「微小知覚」のような発想が意味を持ってくるのである。

恋愛の人間的欠点

 
 誰でも恋愛はするかも知れない。

 しかし、考えてもみれば実にバカバカしいことではないだろうか。

 と言うのは、恋愛においていつもプロポーズする側が心理的弱者(つまり、下)の立場になる。女性が性的な視線を向けられることも、これと同断の構制である(こちらにかんしては個人差の大小も考慮されなくてはならない)。もちろんそれは時代背景にも負うところが大きい。

 さらにバカバカしいことには、恋愛を一種の「博打」にしてしまう(僕は祖父譲りの博打否定論者である)。

 これは人間の尊厳と言うものを考えたとき、それを著しく損なうものなのではないだろうか。それは有り体に言うと、媚び諂いそのものである。それをいいことにした悪事が横行もするだろう。

 心理的な上下のできない男女の関係こそ、これからの時代に模索されるべき問題なのではあるまいか(僕は男性の男性度、女性の女性度の存続を妨げる者ではない)。

 やはりステップワイズ(少しずつ)にお付き合いを深めて行くのが良いのかも知れない。

認識

 
 我々は常に推測しながら生きている。「覚」とは「心が触れること」の謂いである。

 したがって、「認識」とは「収まり(対象意味)に触れること」の謂いである。

 対象意味は、いつもそれ単体では存在し得ない。

 それにはいつもタテとヨコの関係があって、タテを「抽象」、ヨコを「類推」と言う。

 「連合」とか「連想」に人間の本質を見た哲学者や心理学者たちは了見が狭すぎる。

「主観-客観」、「存在」の問題の本質

 
 表題の問題について筆者がよく目にしてきたのは、「それは誰の認識か」とか「どこからものを見るか」の問題だと言う見解である。

 ところが、筆者から見えるそれらの問題の所在は、まったく異なったところにある。

 現実の「主観ー客観」とか「存在」の問題と言うのは、「それには議論の余地があるか」と言う認識の不可抗力性と言うところに問題の所在があるのであり、上記のような問題の立て方そのものがそこから目を逸らしてしまうはたらきをしているのである。

 しかし、それが分かったからと言って、「主観ー客観」、「存在」の問題に適正解を与えているわけではない、と言うことに留意してほしい。

 これは日常よくあることだが、ある主観にとって「議論の余地がない」と思われることが、他のある主観にとって「議論の余地がある」かも知れないからである。それらは、個人的主観レベルでも社会的主観レベルでも文化的主観レベルでも起こりうることである。

 したがって、筆者が何が「主観的」で何が「客観的」で、また、何が「存在」なのかについては何も語っていないことをご理解いただきたい。

 筆者はただ、「主観ー客観」、「存在」の問題の所在が本当はどこにあるのかを指摘したに過ぎない。

 範例を物理学に取ってみよう。

 現在ではニュートン物理学は否定され、アインシュタイン物理学とか量子力学が盛んに展開されている。もっと遡るとアリストテレスの自然学もあった。

 ある文化では、別にわざわざニュートン物理学を否定してアインシュタイン物理学や量子力学をそこに据える必要など実用上はまったくないかも知れない。

 もっと言うと、いまから100年後の「最先端物理学」ではアインシュタイン物理学や量子力学でさえ否定されているかも知れない。

 さらに言うと、お茶の間に暮らす我々には、そんなことはどうでもいいと言う意見がその主観の正直なところかも知れない。

 このように、自然には何が「主観」で何が「客観」で何が「存在」なのかは人類が滅亡しても不明なのかも知れず、一意な解と言うものが本当は存在しえないのかも知れない。

 そのようなわけで、筆者は問題の所在がどこにあるかについては指摘したが、それらの問題に適正解を与えたわけではない、と言うことをご理解いただければそれで満足なのである。

 最後に、「偶然ー必然」問題の本質は、因果性(事象間の規制関係)を認識主観が伴っているか否かの問題であることを指摘して、結びとする。