美しい石で説くマルクスの貨幣認識の誤ち

 
 マルクスによれば、貨幣は他者としてはたらき、ものの価値は生産にかかわる労働時間で決まると言う。

 これをひとがたまたま見つけた美しい石で反証しよう。

 まず、そこには「労働」がない。その上この美しい石には「財産価値(=交換価値…と呼べるのかにも疑念がある)」はあっても「使用価値」がない。

 仮に美しい石を見つけるのにどれだけの人間のはたらき(労働)があったにしても、さしあたりその石の貴重性(=価値)は変わらない。

 これはたまたまその石が見つかったままで貴重である場合はもちろんだが、これをより美しく加工したとしても、その価値を決めるのは加工にかかった労働時間ではなく、その石自体の美しさがそのままその石の価値になるだろう。

 さらに、この石を誰かに売ったとして、それにかかった貨幣量は不変であり、貨幣量が他者としてはたらいているわけでもない。良く言えて貨幣量は社会的測度なだけで、ひとによってその価値認識は変わるので、他者の価値認識が価格に反映されるに過ぎず、あくまで貨幣量は他者に依存する部分はあれど、貨幣量は他者の認識で決まるのであって、貨幣は修飾性(アーチ)ではあってもそれ自体が他者だとは言えない。それは、多くの場合ものの価格を決めるときに比較過程が介在すること一つ取っても、価格で判断する以上、どの他者性を選択するのかと言うブランド的な選好があったとしても、ブランド自体は他者ではなく、レッテルに過ぎないので、貨幣は「誰かの認識標識」なだけで他者がそこに込められているわけではなく、単なる約束事の一形態に過ぎない。

 言うまでもないが、誰かの支出はそのひとが持つ総貨幣量と余所様への負い目のバランスで決まる。マルクスはこの現実を直視できていない。それは資本家だろうが労働者だろうが変わるところはない。

 もうひとつマルクスが見落としていたのは、たとえばハイパーインフレのように札束がただの紙切れになるような事態をどう見るか、と言うことである。

 貨幣はそもそも権力(より正確には社会を眺望できる立場の者)にその起源を持つと言う意見がある。現在の我が国の貨幣の発行元は政府なので、そのことが信用創造につながっていると考えるのには確かにもっともらしい部分はあるが、それより貨幣の存立にとって基本的なことは、物質的ないし精神的な豊かさとそれらの多様性が社会的に確固と根付いているか、つまり経済的ファンダメンタルがしっかりとその社会にあるのかの問題だと言わねばならない。経済的ファンダメンタルが弱いと、貨幣は紙切れ同然になるわけである。

 筆者はマルクス主義を思想として否定しようと思っているわけではない。具体的に考えると経済はマルクス主義が説くほど抽象的なものではない、と言いたいだけである。

お金と「負い目」

 
 行動経済学では心理的痛みを経済の考察の主眼に置いていたが、経済現象に見るべきプロブレマティックは、当たらずとも遠からじであるとの感慨を持たざるを得ない。

 それについて簡単に考察する。

 いわゆる経済行動がどうして成り立つのかは、(物物交換も含めて)守銭奴的な心理的痛みによるのではなく、他人的な意味での「負い目」をその原点に見出さずにはおかない。

 したがって、経済行動を分析するのに必要なのは、他人的な「負い目」の社会的動向を見ることであり、そうして初めて正しい経済的分析が可能になるのである。

 しかし、社会には僕のように他人的な「負い目」を作ったり「負い目」があっても先立つものがなく、そのような才覚のない人間の方が過半のように見受けられる。そのうちのどれだけかの人間は「就職」によってそれを「克服」しているのが現状であり、起業の才覚のある人間はごく一握りである。

 これは、資本主義をと共産主義をと問わず我々に突きつけられた金銭経済の人間的矛盾だと言える。そのような世界なり時代なりでは、ごく一握りの才覚ある人間、あるいは創業家の跡継ぎがリーダーになり、尊敬と羨望を集めることになる。

 僕もホームレスを経験し、社会の冷たさを心底味わった人間なので、何とかしようとこれまで300ほどの生きてゆくための金要らずの知恵を案出したが、それもホームレスのときのように今日の食べ物にも困っているときにはそんなことを考える余裕はなく、何とかホームレスから脱却し、精神的に余裕ができてから捻り出した知恵に過ぎない。「貧すれば鈍す」とは良く言ったものである。

 「負い目」から現在の日本経済を見ると、「負い目>負い目のフォロワー」と言う現状が続いている。これは物価の高騰と貧富の格差(つまり、一握りの人間や企業への富の集中)と言う現実に影を落としている。

 我々は、この現実を直視し、社会のあり方の見直しや社会の制度設計、ないし現状の範囲での手の差し伸べ方(涙ぐましい努力としてはお金にするためのスレッショルド(支払いの難易度)を下げるなど)を真剣に考えるべき局面に直面している。

 いずれにせよ、我々はそのような大局観を持ってこの難局を打破せねばならない。

 それには、まず貧困の現場を見ることである。社会の大局観と貧困の現場は決してかけ離れた問題ではなく、不即不離の関係にある。

 我々は平和主義のもとで育った人間である。絶対的平和主義を貫きながら、すべての人間に対して良き隣人でありたい。

森羅万象の動物的認識および意識の正体

 
 19世紀の生理学は即物的過ぎた。

 17世紀、ライプニッツは「モナド論」により物質と精神の関係についての考察である「モナド」と言う中間項を立てることにより、精神と物質の統一を唱えた。

 「モナド」の実在性を巡っては現在でもさまざまな議論がある。

 だが、この「モナド論」は解釈を変えることで、我々の生活を激変させる可能性を秘めている。

 どう言うことかを説明しよう。

 我々の知覚や認識、意識、対象などを説明するのに「モナド」ではなく「イオン性状分布」によっていると考えると、ライプニッツのモナド論を現代的に修正することができる。この「イオン性状分布」自体は物ではなくて、単なる「状態」である。

 逆の言い方をすれば、我々が認識しているすべてのものは、イオン性状の受容に負い、認識の発送も同断のメカニズムによって行われている、と考えられるのである。かかる「イオン性状分布」は、電気ないし磁力を用いて検出できるらしきことも分かってきた。もし我々が狙い通りにイオン制御できるのなら、そこには大きな可能性はある。

 この知見は、我々の生活を安楽なものに変え、盲聾唖者にとって福音となるであろうが、悪しき精神によれば、人類を弄び、破滅させる原因にさえなり得る、と言うことは良心のある人間には容易に分かることであろう。

 かつてアインシュタインが物質に対して定式化したことが原水爆を産み出してしまった「学者を扮した犯罪者」に転落した苦い経験に鑑み、「科学者」そして一般の人間に強い警告を与え、知恵になり得る認識は慎重に検討する必要が必須であることに注意喚起し、この新しい「モナド論」を提起する次第である。

 意識現象も含めて、「森羅万象はイオン的である」と揚言することでこの拙文を締め括りたい。「認識はイオン分布の写りである」。

偶然と必然

 
 「偶然と必然」について考えてみたい。

 哲学的には「対立する2項」と捉えられがちな「偶然と必然」ではあるが、筆者はそのような捉え方はしない。

 そもそも「偶然と必然」は、我々の感知の問題として、何者かの不如意に制御権があるのか、如意に制御権があるのかの問題だと言って良いであろう。

 問題の所在を分かりやすく言うと、自分も含めての何者かにとっての不如意(たとえば気まぐれ)に制御権を取られている状態が「偶然」であり、如意(たとえば目的遂行)が制御権を握っている状態が「必然」だと言える。と言うか、そのように映る。

 これは心理学用語で言うところの「統制の座(ローカス・オブ・コントロール)」の問題に他ならない。

 つまり、「統制の座」が何者かにとっての不如意にあるときには、諸事象は我々に偶然に映り、如意にあるときは必然に映ると言う事情があって「偶然と必然」と言うコントラストが生まれてくるわけである(これだけで偶然と必然の問題を割り切るのは単純化し過ぎと言うことも弁えてはいるが、敢えて分かりやすくした)。

 したがって、我々から見た「偶然と必然」の関係は、対立ではなく「如意と不如意のせめぎ合い」の関係になることが理解できるであろう。

 このような観点で「偶然と必然」の問題を捉えることは、日常生活でも有用ではないかと思う次第である。

弁証法および唯物論批判

 

 世界事象が弁証法的だと言える根拠はない。

 ただ我々は何らかの違和感を持ち、オーダーとアプローチの「致識」に至るだけである。それが「正−反−合」と言う形を取るのはむしろレアケースである。

 勘と言うことがある。試行錯誤と言うこともある。一回で解ける謎もあれば、何度も誤って最後まで謎が残ることもある。

 つまり、ただ謎のない問題はないと言えるだけである。

 生の始まりは菌類による代謝であるが、我々はこれを精神性抜きに認識することはできない。

 それはこう言うことである。生命の最も原始的な姿でさえ、それは「物質の疼き」、つまり適応的なものだとしか説明することはできない。単なる物質間関係にあっては、「変化」と言う現象は観察できても、「適応」と言う現象は観察されない。もし我々が「適応する物質」を作れたとしても、我々はそれを「生命の模倣」くらいにしか思わないだろう。

 それが転じて我々の生(レーベン)に至ったわけであって、我々は自然、もっと言うと森羅万象は精神的にしか解明しえない。

 いな、生命にとっての自然、つまり森羅万象は須く精神的なのである。物の世界は即物的に認識できても、世界を精神性抜きに語ることは、我々の生活をただ虚ろなものに堕落させるだけである。なぜなら、我々の生活はたとい物であっても、精神との関係において初めて意味を持ち、そして役立つからである。

 この点を唯物論は一顧だにしていない。そのわけは、マルクス主義においては産業しか念頭に置いておらず、生産(産業)関係においてしか人間を見ていないからである。そこには詩(うた)もなければ趣味も遊びも僕のような原始人の存在する余地でさえもない。

 エコロジー(生態学)とコミュニティ(共同体)が鋭く問われる現代に弁証法的唯物論を説くことは、完全にピント外れな認識だと言わざるを得ない。

銀色の哲学

 
 みなさんはアルミホイールを敷いてオーブンの中で何かを焼いても、アルミホイールは熱を持たない経験をお持ちではないだろうか。

 星々は大方例外なく銀色に光っている。つまり、銀色と言うのは熱の影響が届かない星の色なのである。

 また、産業的には大方の熱機関は銀色である。熱がこもるのを最小限にする工夫である。

 これを「熱掃けが良い」と表現しよう。

 銀色は、宇宙でも家庭でも最も「熱掃けが良い」色なのである。

 僕が金色よりも銀色を尊ぶ理由もそこにある。

日本人の色彩感覚

 
 日本人にとって美しい色とは何かを突き詰めてゆくと、いわゆる「暖色系」は忌避される傾向にある。

 ことのほか赤色は「警告」の意味で用いられることが多い。

 なぜなのか?

 それらはなぜかお日様や火、樹木の幹の色を感じさせない色なのである。

 野生では、お日様の当たるところ、火や樹木の幹の見えるところは危険だからなのかも知れない。

 たぶん、我々日本人の祖先たちは洞窟や洞穴などで生き抜いたのであろう。

社会論

 
 社会とは、ひとが複数の人間(ないし個体)にわたる概念的天井(例:現代、官僚…)を感じるような他者たち同士を認識したときに持つ世界性格のことである。

 そのため、夫婦、親子のことを直接に社会であるとは言わない。近縁であるほどそうなのであり、それらが「社会関係」と呼ばれることがあるのは、そこでそれ以外のひとびとと対照しているためである。

 我が国で言う「社会」は、もともと「お社」と言うものがその源流にある概念である。

 「家族」を社会に含めて考えるのはそのためである。

 したがって社会と言うものはデュルケームが言うような「もの」ではなく、心理的実在である。