銀色の哲学

 
 みなさんはアルミホイールを敷いてオーブンの中で何かを焼いても、アルミホイールは熱を持たない経験をお持ちではないだろうか。

 星々は大方例外なく銀色に光っている。つまり、銀色と言うのは熱の影響が届かない星の色なのである。

 また、産業的には大方の熱機関は銀色である。熱がこもるのを最小限にする工夫である。

 これを「熱掃けが良い」と表現しよう。

 銀色は、宇宙でも家庭でも最も「熱掃けが良い」色なのである。

 僕が金色よりも銀色を尊ぶ理由もそこにある。

日本人の色彩感覚

 
 日本人にとって美しい色とは何かを突き詰めてゆくと、いわゆる「暖色系」は忌避される傾向にある。

 ことのほか赤色は「警告」の意味で用いられることが多い。

 なぜなのか?

 それらはなぜかお日様や火、樹木の幹の色を感じさせない色なのである。

 野生では、お日様の当たるところ、火や樹木の幹の見えるところは危険だからなのかも知れない。

 たぶん、我々日本人の祖先たちは洞窟や洞穴などで生き抜いたのであろう。

社会論

 
 社会とは、ひとが複数の人間(ないし個体)にわたる概念的天井(例:現代、官僚…)を感じるような他者たち同士を認識したときに持つ世界性格のことである。

 そのため、夫婦、親子のことを直接に社会であるとは言わない。近縁であるほどそうなのであり、それらが「社会関係」と呼ばれることがあるのは、そこでそれ以外のひとびとと対照しているためである。

 我が国で言う「社会」は、もともと「お社」と言うものがその源流にある概念である。

 「家族」を社会に含めて考えるのはそのためである。

 したがって社会と言うものはデュルケームが言うような「もの」ではなく、心理的実在である。

ユークリッド幾何学批判

 
 ユークリッド幾何学には、人間の認識と相容れない部分があるのでそれを質したい。

 点と線の定義において、それらは面積を持たないと仮定しているが、面積を持たない点や線は実在しない。

 こう指摘するとすぐにひとびとはイデア論の話に逃げる。点も線も真円も正三角形も実描に対するイデアであって、現実には描き得ず、なので真実に実在するものはイデア(仮構)だけなのだ…と。

 よくよく考えてほしい。この話は単なるレトリックなだけなのではないか、…と言うのも、点や線や真円や正三角形は現実に描き得ず…と言っておきながら、我々の脳裡でだけは描き得る、と言う…ちょっと待ってくれよ、そんなの我々の脳裡でさえ描き得ないではないか、…と言うお話になる。

 ユークリッド幾何学…延いてはイデア論そのものに矛盾があるのである。

 少し真面目に考えると、どこからそんなことを発明したのかは知らないが、点や線や真円や正三角形ほど真実には実在しえないものはない…だがみんなはそれ(=イデア)だけが真実に実在するのだと言う。

 ユークリッド幾何学自体の限界も含めて、イデア論に潜む矛盾についてご一考を迫っておく次第である。

理の矛盾のまとめ~行動主義とイデア論等~

 
 行動主義は「目に見える行動」を対象にすれば、それが科学の要請する客観性・公共性を担保できる旨をその唱道者であるJ.B.ワトソンに言われて著しくラディカルな「心理学」がもたらされた。

 しかし、現場の研究者たちは口にこそは出さないが、その当の「行動」は少なくとも現実的には2義以上の性格を持つ、すなわちその「行動」は研究者の推測上のものか、主体の現実のものか、或いは…と言う矛盾を孕んでおり、そのどこが客観的なのか、と指摘せざるを得ない。なぜこのことが問題にならないのかと言うと、研究者たちにとっては単なる推測上のことが現実にも起きるのかにしか関心を払っていないためである。

 プラトンが提唱した「イデア論」によると、「真実在はイデアだけ」で、それは心の中(脳裡)にしかないと言われている。

 たとえば真円とか正三角形と言ったものは作図をすれば必ず誤差が出ると言う。不思議なことに、みんなはこれを冗談だと解してはいない。なぜなら、真円とか正三角形と言うもの自体、すでに心の中(脳裡)でしてからが現実に描きうるわけではないからである。

 このような社会的来歴を持つ「イデア」と言う観念は、その誤解から解かれるために、「理念」と言い換えられるべきだと考えている。「イデア」は「形而上存在」と呼ぶことにしたい。ユークリッド幾何学を参照するまでもなく、線分とか点とかは現実には非実在である。このように、「形而上存在」と言うのは、本当は真実在どころではなく、真非実在(単なる理)である。このことを分かりやすく言っておこう。「理と言うものは目に見えない(理論の中にしか存在しない)」のである、あるいは「実在しないのはイデアだけ」、と。したがって当然、行動主義の追い求めるものも「目に見える」わけではなく、そこに我々が見るものはある種の特異な「理の現れ」であるに過ぎない。この理解は、ものをものとして定義できないと言う人間の感性認識の限界の問題も同時に語っている…感性は感性以上には認識できないのである(ただし、ユークリッド幾何学の難点を克服したければ、線分の内側・外側と言う認識を与えれば良い…「含まれている/含まれていない」は計算結果を左右しない…このことを「包含関係は範囲・面積にとって明晰である」と言うこととする)。

 最後に「因果律」についての誤解を解いておこう。特にヘーゲル以降ひとびとは因果律が適用されるべきではないような事象にも因果律を適用し、それを単なる事象継起程度の意味でしか用いなくなった憾みがある。しかしそれは誤解である。

 因果律で説明されるべき継起とは、「それがなかったらそれは起こらなかった」と言うくらい強い継起的関係性(焦点と像の関係)について言及するときに用いるべき概念なのである。ある哲学者によると、砲弾による要塞の破壊は、上司の命令によるとも言えるし、砲弾があったことによるとも言えると言って因果律の相対性を説き、それは一種の擬人化だとさえ言うが、別に上司の命令がなくても別の砲撃手によって砲弾を撃った場合でも要塞は破壊されうるので、前者ではなく後者の(とある砲撃手の手元に砲弾があってその砲撃手に砲撃の意志があった)方が「因果律」と呼ばれるにふさわしいのである。

 なお、現実から予想通りではあるが、このようなことを見るにつけ、人間の学習的洗脳性は高いと言わざるを得ない。

廣松「物象化」論にみる錯認

 
 まず、筆者が廣松の言うところの「物象化」が起きる単純な理由をテーゼの形で示しておきたい。

 “ことばがもの(森羅万象)をもの化する”

 つまり、筆者が言いたいことは、いわゆる「物象化」と言う意識のはたらきは、「意識対象-意識作用-意識内容」と言う「カメラモデルの世界観」などと言う大袈裟なところによって生じるわけではなく、ことばそのものがもの的性格を持つことによって起きる普遍的事実によって支持されている、と言うことである。
 
 タイトルの割には短い文章になったけれども、要するにそう言うことである。