僕:どうして世界には平和が訪れないのでしょうか?
神様:それはじゃな、頑ななまでに小さなことを大事にしなくなったときに訪れる理と言うものじゃ…要するに日常生活感覚を忘れると言うことじゃからそれを大事に思うように仕向けることが大切じゃ…人間、大きなものに自分を委ねれば、その身の丈を大きく思いがちなものなのじゃ…
…そこで僕は考えた。これからの国際秩序は軍事的にではなく刑事的に守られるべきだ、と。
それは我が国憲法の前文にある「名誉ある地位を占めたいと思う」と言う一節とリンクしている。
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僕:どうして世界には平和が訪れないのでしょうか?
神様:それはじゃな、頑ななまでに小さなことを大事にしなくなったときに訪れる理と言うものじゃ…要するに日常生活感覚を忘れると言うことじゃからそれを大事に思うように仕向けることが大切じゃ…人間、大きなものに自分を委ねれば、その身の丈を大きく思いがちなものなのじゃ…
…そこで僕は考えた。これからの国際秩序は軍事的にではなく刑事的に守られるべきだ、と。
それは我が国憲法の前文にある「名誉ある地位を占めたいと思う」と言う一節とリンクしている。
昔、あるところに大変に才覚のある人間がおりました。
彼はその才覚を「大きなところ」に見込まれて、「手伝ってあげましょう」と言うので、それを受け入れました。
そして、その「大きなところ」は、みずからがそれで手に入れる大枚のごく一部を「キックバック」して彼に環流していました。
そして、その「大きなところ」は、「我々の存在を伏せていてくれるなら、あなたに手渡すお金が途切れることはありませんのでご安心を」と彼に言いました。
そのため、その才覚の持ち主である彼は、周囲から「黙々と努力する人」だと誤解され続けましたとさ。
おしまい。
ウサギさんはカメさんに冷たくされており、カメさんへの愚痴をいつもこぼしていました。
トカゲさんはそのウサギさんに冷たくされており、ウサギさんへの愚痴をいつもこぼしていました。
いたたまれなくなったトカゲさんは、自分に冷たいウサギさんに姿見、つまり鏡を贈りました。
鏡をもらったウサギさんは、自分の姿にさぞ惚れ惚れするだろうと自分の姿を鏡に映しました。
するとどうでしょう、贈られた鏡に映ったのは、あの自分に冷たいカメさんの姿そのものではありませんか。
昔から我々は自分と大して変わらない心の持ち主が自分と似ていることにいつも一番気付きにくいようです。
おそらく、カメさんも他の誰かに冷たくされていたのでしょう。
ことばは踊る バトンの渡し方に気を遣いながら
こころは向き向かずの繰り返し 織りなす道の歩き方に
どんなところかと 手を差し伸べながら
春学期が終わり、僕の手には通知表
僕の地域では5段階評価なんだ
通知表を見たら、ほとんど「3」だった
これって、どう言うこと? 僕はそれなりに頑張ったし自信もあった
なのに先生はと落ち込んだ
神様はそれを見ていた、「君の考えは違う」と
形の上では先生がつけた成績かも知れない
じゃが、わしの考えは違う
それは実はあなたが先生の授業につけた点数なんだ
昔、あるスズメの子のなかに、さえずることができない鳥がおりました。
他の鳥たちは皆、さえずりをすることでお互い助け合って生きておりました。
なので、さえずることができないその子は、いつも仲間であるはずのスズメたちからからかわれたりいじめられたりしておりました。
そのスズメの子は思ったのでした。「自分みたいな醜いアヒルの子は産まれてこなければ良かったんだ!!」。そして夜な夜な目には見えない涙を流し続けました。
ある日、そのスズメの子が起きたときに、「何か大事なものは、どこにあるのかが分かると良いのに…」とふと思い、あたりを見渡すと、昨夜の嵐で飛び散った木の枝が散乱していました。
鳴かないスズメの子は、「そうだ!!」と突然何かに気付いたように、自分にとって大事なものがある方角にそれらの木の枝の先っちょを向けて並べることを思い付きました。
大事なもの、それは食べるものがたくさんある方角だったり、天敵に狙われると逃げるべき方向だったり、嵐の夜に風雨から身を守れる場所だったり、仲間がいる方角だったり、それはそれはさまざまなことでした。
その子はその習慣を身につけたおかげで、他の仲間たちよりもはるかに長生きできたのでした。
何かが欠けていることが、必ずしも生きる上では問題ではなかったのです。
おしまい。
ひとびとは限りある人生を生きているうちに、「永遠に死なないいのち」に憧れていました。
そこで偉い学者さんが、どんな環境にも姿形を変えることで永久に生きられる生き物と言うものがこの世にいないか、と言うテーマで研究を始めました。
それを天から眺めていた神様が、その偉い学者さんにすべてを司る力を与えてみたのでした。
偉い学者さんは実際に世界をそのようにしてみて、3つのことが分かった、と神様に心の中でつぶやいたのでした。
ひとつは、いのちに限りがなくなると、ひとびとはあらゆる感情を失って、虚しい永遠のいのちを生き続けなければならなくなってしまった、と言うことでした。
ふたつめは、生きることしかなくなった永遠のいのちは、それをよいことに永遠の心の戦を生き続けるしかなくなった、と言うことでした。
最後に、永久に生き続けるいのちがこの世の大多数を占めるようになると、神様が与えた自然の中では一時は良いにせよ、いずれ偏りが生じて自然自体が成り立たなくなり、永遠に生きられるはずだった理想のいのちたちはその万能性のせいで滅亡してしまった、と言うことなのでした。
それで偉い学者さんは悟ったのでした。「いのちというものは自然を相手にしてけんかを売るようなもので、いのちのかたちは理に適うように限られている」と。
神様がいのちを永遠にしなかったのには、そんなわけがあったのでした。
おしまい。
遂に人類がタイムマシンの開発に成功し、過去や未来に自由に行き来できるようになりました。
こけら落としに、そのマシンで原始人を現代に連れてきました。
すると、皆の期待とは大違いで、原始人は現代にやってきたのにあまり嬉しそうではありませんでした。
それを見た現代人は、もっと原始人が喜ぶと思っていたので、「原始人と言うのは感性に乏しくて、やっぱり所詮原始人だな」とがっかりしました。
逆に原始人は現代人にこう言ったのでした。「何かを引き換えにしないと何も得られない世の中と言うのは悲しい。我々には自分自身の行為だけで満ち足りられるひとしかいなかったのに」と。
いずれがと争うことは愚かであろうが、いったいどちらが幸せに近いのでしょう。
我々は誰かに殴られると痛みを感じる。体と心の問題と言うのは、そう言う経験則の範囲で十分なはずである。心と体という問題は例えれば海と泡沫(うたかた)のようなものである。
ところが、「科学」と言う因習にとらわれ過ぎたある国のひとびとが、「もっと殴ったら人間はどうなるか?」と言う疑問の虜になった。
そこで、そのひとびとはよその国のひとびとをさんざん殴り続けてしまった。
本当は誰にでも分かっていたのだ。ひとは耐えがたいまでに殴られ続けると頭蓋骨を骨折して死んでしまうことを。
いまでも「科学」と言う因習にとらわれ過ぎた国のひとびとは、結論が分かり切っているにもかかわらず、よその国のひとびとを殴り続けている。
もともとその国のひとびとは暮らしを豊かにするために科学を始めたはずが、そのせいでかえって心が貧しくなってしまった。
これは一体どういうことなのであろうか?
昔、ある村にとても優秀な美男と美女がいて、2人は結婚しました。
容姿や頭の良さにおいて「とても敵わない」とその村のひとびとは劣等感と苦悩に悩みながら日々を生きていました。
他のもう一つの村には、特段ひとびとの容姿や頭の良さで抜きんでる人もいなければ、劣ったひともおらず、特段の悩みもなく暮らしておりました。
ある村と他の村にはひとつだけ違いが出てきました。それは、劣等感と苦悩に満ちたある村では芸術が生まれ、心の慰めが生まれたのですが、他の村ではそれが生まれませんでした。
一体どちらの村のひとの方が幸せだったのでしょうか。