認知の初めは違和感である。ズレやキワダチではない。
お金論
お金と言うのは、魔性の女のようなもの。執着しないに越したことはない。
正義論
正義とは、慈しみの心に反逆することに対して自覚される意識である。
ゆえに、正義と迎合は厳に峻別されなくてはならない。戦争に正義などないのである。餓死するとも戦は避けるべし。
人間というものはそれが心であれ仕事であれ仮面を被るほどに心が浅くて冷酷になってゆく。
そのことは発達によって明確になってくる。
文化論
文化とは、どの個性を選択するかの問題である(ミクロにもマクロにも同趣)。
’25年5月12日~15日弘前旅行記
10数年ぶりに学生時代を過ごした弘前を訪れた。
宿泊したのは紀伊國屋書店の上階にある弘前パークホテルであった。

そして5月13日に恩師である平岡恭一先生に会い、来来軒と言う中華料理店で志那そばと餃子をご馳走になり、その後あの太宰治も通ったと言う東北最古の喫茶店「万茶ン」にてさまざまなお話を交わした。

翌14日にはやはり恩師である丹藤進先生に会い、寮生活を送った弘前大学北鷹寮や弘大の喫茶「スコーラム」に行き、昼食をご馳走になった。

たまたま岩木山が良く見えたので、シャッターを切ってみた。

学寮にいた頃は毎日見慣れていた岩木山ではあったが、10数年ぶりと言うこともあり、懐かしく思った。
そんなことを味わった後、名古屋に帰ってきた。
有意義な弘前旅行であった。
夜の夢(夢の対角線仮説)
夢とは、自分と斜めの関係にある人物との関連事象の現れである。
また、夢は複経験の再構成的転化でもある。
t検定と分散分析のロジック
2つの平均値の差の検定にt検定を、3つ以上の平均値の差の検定に分散分析を用いることは、心理屋なら誰でも知っていることである。
しかし、大学などの高等教育機関では煩瑣な検定の手続きを教わりはするが、なぜそうするのかはなかなか教えてもらえない、と言うのが現状であろう。
そこで、今回はt検定と分散分析に共通するものの考え方、つまりロジックについてお話させていただきたい。
平均値が少しの違いでも、分散(データのばらつき)が非常に小さければ、それらの平均値の差が統計的に有意(有効)になり、平均値が大きく隔たっていても分散が非常に大きければ、n.s(not significant 有意ではない)なことがあるように、平均値の差の検定をする場合には、平均値の大きさの差と分散の小ささの2つの要因についての正確な情報が欠かせない。
(標本数が同じなどで)簡素化されたt検定の式を見ていただくと、それは非常にはっきりする。
分散分析でもそれは同じことで、手続きを知っているひとから見れば、分散が小さな要因探しが大きなテーマになっていることに気付かないであろうか。
平均値自体はt検定と同じ扱いになり、要因数の効果を相殺しながら分散の小さな要因探しをするのが分散分析の本質である。そのさいに、平均値のそれとしての強さと平均値の差の強さを規定するのが分散なのである。
そのように見てくると、t検定も分散分析もあるグループの分散の小ささに注目しているわけである。要するに平均値の差の検定にはそう言うロジックが生きているのである。
オルフィレウスの永久機関(Short Ver.)
永久機関について予備知識のない方はこちらをご覧ください。
オルフィレウスの永久機関は、複数のシーソー状の丸太の支点が丸太の運動、つまり力の回収が止まらないように釣り合いが取れそうになると支点が逆に移動してイントレランスを産み出す仕掛けだったのだろう。それが「重心が永久に釣り合わない」と言うことの意味だったのだろう。
まぁ、考えればできないことでもないことはお分かりいただけようかと思う。
軍隊によらない国際秩序の防衛(原版リリース 2022-03-12 14:58:11)
平和国家としての我が国は、そもそも国際秩序の防衛のために、どのような立ち位置をとるべきなのか?
答えはそれほど難しくはない。「力による現状変更」を許さないと言う観点から、軍事力ではなく、警察力によって「力による現状変更罪」をひとつの犯罪として立件し、これを犯した者は監獄に放り込めば良い。これは我々のような名もなき百姓衆の末裔の日常の常識と言うべき考えではなかろうか。
そしてこれは国内外を問わない我が国の国是とすべきである。
小国が分立する現代には、これは殊の外重要な考え方である。
そして何よりも、このような政治的立場は、憲法第9条を理念とする我が国には、ことの必然と言うべきだろう。思い出して欲しい、現在の「自衛隊」は発足当初「警察予備隊」であったことを。
今叫ばれている「国連改革」も、そこを目標に掲げるべきである。
兵器を消耗して軍需産業を肥やし、犬死にする人間を増やすより、その方が遥かにローコストかつ人道的である。
要するに、これからの国際秩序は軍事的にではなく刑事的に守られるべきだ、と。
それは我が国憲法の前文にある「名誉ある地位を占めたいと思う」と言う一節とリンクしている。
日常の肌感覚(現実認識)から離れたとき、それは平和の終焉と戦の始まりを告げる。あなたとあなたの周囲のひとびとが権力者によってそれを忘れさせられ、騙されることがなければ、そう思っている圏内では超然と平和は守られる。学者か何か知らないが、ひとを虫けらだと思っているから大量殺戮の方法を臆面もなく思い付き披露するのである。この手の手合いには要注意せねばならない。
一考に供する次第である。
誰も明らかにしなかった「重力」の本質
元来「重力観」には2つの立場がある。1つは「スタティック(=静的)」と見る立場(従来の重力観)であり、もう1つは「ダイナミック(=動的)」と見る立場である。筆者は後者の立場で見ると言うことを、ここで予めお断りしておく。なお、ニュートンからアインシュタインに至る重力観の系譜はすべて重力を「所与のもの」と見る立場であり、それゆえ重力の発生過程を説明しない立場であった。しかし、その視点の限界は、重力係数が定義ごとに異なると言う矛盾などに認めることができる。
「重力」によって惑星上のものものは同じものものが真空宇宙空間にあるときよりも「軽く」なろうとしている。言い換えると、「重力」とは本質的に「物体の総体的な抵抗力(=反発力)を無効にする力」のことであり、ものものの結合力(分子間力)を弱めるエネルギーであると言える。それくらい単体物の宇宙中におけるエネルギーは強い。それゆえ「重力」は、地球上でのものものの本来(宇宙空間中)の「重さ」に対する「脱力化」のはたらきをする。
これが惑星の中心からの物性の変化であり、それにより球形でもものものが周囲に遇われる理由である。
平たく言うと「重力」によってものものの結合力が弱まる。「重力」は惑星中心のガス「燃焼(燃焼物が燃焼温度になっても閉じ込められて燃焼できない可能性もあるのでこのような表現をした)=熱的重層性(ポイントは真空かそれと近似の熱力学の問題)」によって発生する現象である。意外に思われるかも知れないが、太陽系惑星は一番遠い海王星でもその中心温度は5000度はあり、その中で最も中心温度が低いのは火星(2000度)であり、地球を1としたときの重力が0.42しかない。これは太陽系惑星の中で最も重力が弱い。重力がガスの挙動によって引き起こされることを示唆する事実である。ちなみに月の重力はみんなが知っている通り地球の6分の1(中心温度1200度)である。
星に高低ができるのは、単にものものの結合力の差の表現に過ぎない。このことを別の角度から考えると、重力と言うのは垂直に最も良くはたらき、天体を構成する全物質を堆積するはたらきであると言うべきである。これを一言で「物約性(物的電気化学変性)」と言う。よって天球の平面上の速度をもつすべての運動体は、上昇運動(この場合だけ重力は強まる)を除いて静止物体より小さな重力しかはたらかない。このことから、天体上で相対的に静止しているものにしか所与の重力ははたらいていないのである(しかし、天体がすべて運動体であることから、一つの要因として静止していることが重力を発生しているのか否かには議論の余地がある…筆者の考えでは、慣性系と重力は背反する。この点で重力と慣性系を同一視したアインシュタインの相対性理論は誤っており、むしろ重力と慣性系は反対するものだと考えるべきである。また、彼の所説のように重力によって歪むのはあくまで質量体なのであり、宇宙空間なのではない。質量体が歪みを生ずるのであたかも空間が「歪んで」いるように「見える」)。
なので、同じ物質(もの)でも恒星・惑星表面にあるものと、真空宇宙空間にあるものでは、後者の方が結合力は強い。これが、直径がたったの数メートルの流星でも地球に与える衝撃がきわめて大きい理由である。逆に、太陽系惑星以外の宇宙彷徨天体が衝突しない限りは惑星公転の軌道から全く外れないのは、重力が質量に依存すると言う仮説の反証と見ることができる。
※なお、「ガス」と表現した部分は「特殊な鉱物の高温状態」と読み替えることもできる。