日本の素朴でシンプルなプチ永久機関「巡りん(めぐりん)」

僕の一発芸「巡りん」では、以下のように「たらい」のように横(底)面積の広いものが確実に動作する。理由は、水圧を大きくできるからである。水圧(空気圧)は器の横(底)面積を限りなく大きく取れば取るほど無限に大きくできる。実際に動作確認もしている(たらいは任意の方法で水中に固定)。理の上では、ここで「平衡の原理」を持ち出して誤解するひとがいる。言うまでもなく、「巡りん」は「平衡の原理」によるのではなく、「力学(空気銃)の原理」によって動作するのである(この場合の流体(空気)は閉じていないのでパスカルの原理は働かない)。ここを見誤ってはならない(そのことに疑問を持つ方はこちらを参照のこと)。

また、これを本当に永久機関にしたければ、この周りをトウモロコシ製プラスチックで囲い込む必要がある。そうすれば、水の蒸発なく空気の水への溶融も飽和したところで止まるからである(水の腐敗防止対策として5パーセント程エチルアルコールを入れること)。

なお、念のため装置全体が水没するまで空気の吹き出し口は指または弁(キャップも可)で閉じておくこと。この知恵で「仕事」を取り出したいときは、空気の排出口の上にスクリューを配置するなりして力を取り出せば良い。船の航行などに応用できるだろう。

形は工夫次第。日本の知恵のシンプルさをご堪能ください。

※2015年6月30日早朝 着想

※空気の循環が可能な範囲でダウンサイジングが可能/挙動が分かりやすい透明な装置も可(シリカ製を推奨)/コピーライトフリー

※それでもまだ懐疑的な方は、こちらを閲覧のこと。僕のホームページはこちら

 

#輪廻

ゼノンの「矢のパラドックス」の理解法

 
 ゼノンの有名な矢のパラドックスは、次のように考えると氷解する。なお、矢は等速直線運動をすると仮定する。

 「矢は到着点までその半分、そのまた半分、そのまたそのまた半分を通過しなければならないので矢は最終的に到着点に辿り着くことができない」。

 この詭弁は次のように考えるとすんなり理解できる。

 「矢がその半分に到達するのにかかる時間は全体の2分の1、そのまた半分に到着するのにかかる時間は全体の4分の1、そのまたそのまた半分に到着するのに要する時間は8分の1…」…これらの時間の合計は矢が射出点から到着点に達する時間に等しい。

 つまりこの問題の「逆パラドックス」は、次のことを教える。

 「時間を半分点、その半分点、そのまた半分点、そのまたそのまた半分点…と切り刻んでいるうちは、総所要時間に永久に及ばない」。

 まぁ、微分学のようなお話なのであった。

神様がひとを見る目

 
 僕も関根豊松もそうだが、真心を失わない限り、神様は社会に相手にされない人物を可愛がってくださるようだ。ただし、それには人生で並大抵ではない苦労をしたのでなければならない(もちろん苦労は好んでするものではない)。

 まさに僕は永久機関を考えたりして社会からひどく白眼視されているし、関根豊松は幼少期から社会に冷たくされることが多かった。

 いま自分が神様に可愛がられていることは感性的に分かるし、それは何にましてもありがたい。真心を失わなければ、社会から冷たくされた方が神様の庇護の下で生きうるのである。

 そのように、神様はひとをその頭ではなく、境遇を見てその目にかけるかどうかを決めていらっしゃるようだ。

 夢のある話ではないか。

 だからみなさん、どうか僕を相手にしないでください。

 ※関根豊松については熊田(くまた)先生のこちらをご覧ください。

ゲーム「石合戦」

 
 交互に石を投げ、相手と自分の石の間に石を落とし、多く間に石を落とせたひとが勝つゲーム。

 石に印(たとえば石の大きさ)を付けどちらの石かが分かるようにし、前から何番目の間に石を落とせたかでその番目を得点とする。体力の弱い方に小さい石、強い方に大きい石と言ったような配慮をするのが良い。

 ※ルールは任意で良い。

銀色の哲学

 
 みなさんはアルミホイールを敷いてオーブンの中で何かを焼いても、アルミホイールは熱を持たない経験をお持ちではないだろうか。

 星々は大方例外なく銀色に光っている。つまり、銀色と言うのは熱の影響が届かない星の色なのである。

 また、産業的には大方の熱機関は銀色である。熱がこもるのを最小限にする工夫である。

 これを「熱掃けが良い」と表現しよう。

 銀色は、宇宙でも家庭でも最も「熱掃けが良い」色なのである。

 僕が金色よりも銀色を尊ぶ理由もそこにある。

日本人の色彩感覚

 
 日本人にとって美しい色とは何かを突き詰めてゆくと、いわゆる「暖色系」は忌避される傾向にある。

 ことのほか赤色は「警告」の意味で用いられることが多い。

 なぜなのか?

 それらはなぜかお日様や火、樹木の幹の色を感じさせない色なのである。

 野生では、お日様の当たるところ、火や樹木の幹の見えるところは危険だからなのかも知れない。

 たぶん、我々日本人の祖先たちは洞窟や洞穴などで生き抜いたのであろう。

社会論

 
 社会とは、ひとが複数の人間(ないし個体)にわたる概念的天井(例:現代、官僚…)を感じるような他者たち同士を認識したときに持つ世界性格のことである。

 そのため、夫婦、親子のことを直接に社会であるとは言わない。近縁であるほどそうなのであり、それらが「社会関係」と呼ばれることがあるのは、そこでそれ以外のひとびとと対照しているためである。

 我が国で言う「社会」は、もともと「お社」と言うものがその源流にある概念である。

 「家族」を社会に含めて考えるのはそのためである。

 したがって社会と言うものはデュルケームが言うような「もの」ではなく、心理的実在である。