講座 心理学概論 6 知覚心理学 5 視覚キャプチャー

 テレビで音楽番組を観ているとき、テレビのスピーカーからではなく、映像中の楽器から音かしているように感じた経験は誰でも持っているであろう。  

 映画館で映画を観ているとき、映画館のスピーカーからではなく、映画の登場人物の口から声が聞こえるのを体験した方も多いはずである。  

 これと同じことが腹話術にも言える。今人気の「いっこく堂」さんの腹話術を観ていると、彼の声帯や腹膜からではなく、人形の口から声が聞こえるように感じられる。  

 このような「誤った」音源定位は、映画や腹話術をより楽しいものに感じさせてくれる。このような音源定位上の効果のことを「腹話術効果」と呼ぶ。  

 これと似た現象に「マガーク効果」がある。英米の大人に顕著に見られる効果で、その概要は以下の通りである。  

 映像中で/ga/と言っているように見える人物の映像に、/ba/と言う音声を聞かせる。すると英米の大人は、/da/と聞き取るという効果が「マガーク効果」である。特にアメリカで研究が盛んなトピックではあるが、未だ原因の解明には至っていない。  

 このように、多くの知覚において、視覚が主軸となって感覚が統合されることを「視覚キャプチャー」と言う。喫煙者の方にしか分からないであろうが、暗闇でタバコを吸ったときに煙が見えないと「吸った感じがしない」のはこの典型例と言える。  

 しかし必ずしも感覚の統合が視覚優位に行われる訳ではないことも指摘され始めている。  

 例えば微妙な時間的変化をする映像に合わせる音のタイミング次第で映像の見え方が変わる現象が報告されている。  

 この分野は、未だ謎だらけである。

  

講座 心理学概論 6 知覚心理学 4 幾何学的錯視



 「錯視」とは単なる見間違えとは違って、上図のような目を欺く図形のことを言う。「ミューラー・リヤー錯視」の図をご覧頂きたい。自然と上の矢の軸の方が下のそれよりも短く感じられる。これは、我々が同じ長さの線分であっても、それを「違う」と思わせるに十分な知覚的特質をそれらは備えているのである。「ミューラー・リヤー錯視」にかんして言うと、下の図形では軸が「出っ張って」見え、上の図では軸は「奥まって」見える。この錯視を説明する有名な仮説に「グレゴリーの仮説」がある。矢羽根がなす角度をコーナーとして見るからこの錯視が起こると言うものである。ならば奥行き知覚の生じない単眼視ではどうかを見てみればよい。筆者はたぶん、線分の起点・終点が明確でないことによりこの錯視が生ずると考える。  

 このように、錯視図形が我々に語りかけるものとは、「我々は常に知覚の恒常性を保とうとして環境を見ている」ことなのである。  

 読者の皆さんは、「では他の錯視図形をいかにして知覚の恒常性との関係で捉えるか」について、演習問題だと思って挑戦して欲しい。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 3 知覚の恒常性

 我々は、明るさや近さ、視点の位置などが異なっても、ある対象の色や大きさ、形が変わったとは認識しない。このことを「知覚の恒常性」と言う。  

 友人が遠くからこちらへ歩いてくるとき、我々の網膜上では友人の像が大きくなってくるが、我々は決して友人が「大きくなってきた」とは認識しない。  

 リンゴはさまざまな光源からの光を浴びて、視覚上の彩度が変化するにもかかわらず、「これはさっきあの光源の下で見たリンゴだ」と同定することができる。  

 机は、見る位置によって網膜上の形が変化するが、我々は「机の形が変わった」とは認識せず、自分の視点が変わっただけだと判断できる。  

 これらはすべて、「知覚の恒常性」を示す現象である。  

 先に、「無意識的な知覚的推論」と言う言葉を使ったかと思うが、これらもすべてそれに該当する。  

 なぜこのような現象が見られるのか。  

 それは、「環境適応」と深く関わっている。もし、「友人が歩いてくる→近づいてきているだけだ」とみなさずに「友人が歩いてくる→友人がだんだん大きくなってきた」と解釈するとしたならば、建物と友人の関係は一貫性を欠いたものになってしまうであろう。  

 このように、「知覚の恒常性」は、私と世界を合理的に関係づける役割を果たしているのである。世界の持つ合理性を私において実現するメカニズムが、「知覚の恒常性」なのである。  

 ここで、これと紛らわしい概念である「恒常仮説」と言う用語について注釈しておく。  

 物理学的刺激のいちいちが心理学的な知覚のいちいちに対応する、つまり、例えば音楽における一音一音が心理学的刺激として一音一音ずつ特有の効果を持っているという仮説のことを「恒常仮説」という。ここで触れている「知覚の恒常性」とは何の関係もない仮説で、ゲシュタルト心理学者がその反証に最も力を注いだ仮説のことである。  

 さて、「知覚の恒常性」については一応の理解が得られたものと思う。次節では「知覚の恒常性」が働く故に生じる逆説的現象である「錯視」を紹介するつもりである。  

 「錯視」とは、刺激の物理的特性と心理的特性にずれが生じる現象のことである。まだまだ解明し尽くされた錯視というものは存在しないと言われるほど心理学研究が歴史的にも長く行われている現象である。近年、錯視と「知覚の恒常性」の関係が注目され始めたことを受けて、上記のように問題提起した次第である。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 2 プレグナンツの法則

 我々は、雑然とした部屋に探し物にはいるとき、容易に探し物を見つけることができる。  

 どうしてなのであろうか。  

 それは探し物が「目立つ」ためではないだろうか。「期待」は探し物を見つけるときに大きな役割を果たす。空気の中の塵ひとつを探すより、有名作家の小説を探す方が、より容易であろう。それは有名作家の小説の方が「単位」として認識しやすいためである。このような知覚的分節のことを「ゲシュタルト(パターンないし全体を意味するドイツ語)」という。19世紀初頭にヴェルトハイマー、コフカ、ケーラーなどによって前面に出てきたこの「ゲシュタルト」と言う概念は、一大心理学勢力となり、彼らは「ゲシュタルト心理学者」として認知されることとなった。  

 「部分の総和は全体と異なる」という彼らの主張は、一音一音とメロディーの関係を例に出すまでもなく、我々の環境認識にかんする考え方に一大センセーションを巻き起こした。  

 その中でも今節では「プレグナンツ(簡潔性)の法則」を紹介する。  

 ものがまとまって見える現象を「群化」と呼ぶが、その中で特に重要なのが「近接」「類同」「連続」である。  近接から説明する。       

 「・・・・・・・・」はただの「・」の連続に過ぎないが、「・・ ・・ ・・ ・・」としたらどうであろうか。「・・」がひとまとまりに見えるであろう。  類同とは、×を多数並べて「X」という文字を作りそのまわりをびっしりと「+」で埋めても、「X」とハッキリ判読できることである。  連続とは、「T」のように縦線と横線がある場合に縦線・横線がそれぞれに独立して認識できるように、「連続した刺激はまとまりやすい」ことである。  

 この他にも「閉合」とか「良い形の要因」とかあるが、ここでは割愛する。  

 これらの要因が我々に認識世界の安定性を与えているのは確かであろう。このように我々の知覚は単なる感覚の寄せ集めではなく、「知覚的推論」という脳の過程によって処理された情報構築作業を無意識のうちに行っているのである。これは盲人が開眼手術を受けた直後でも示される事象であるため、先天的に備わった能力であることが証明されている。

 ただし、これだけで知覚のすべてを説明できる訳ではない。情報として目立つ部分のことを「図」、背景になる部分のことを「地」と呼ぶことは先述したが、「図」が何であるかを規定する要因は他にもあり、これについては後述することとしよう。

 筆者なりに「プレグナンツの法則」を翻訳的に理解すると、それは「人間の知覚は情報量を節約(小さく)するようにできている」と言った感じであろうか。それはあまねき人間の知覚に言えようかと思う。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 1 感覚と知覚

 なぜ心理学では「感覚」や「知覚」を問題にするのであろうか。  

 初期の研究がこのようなテーマを特に強調するものであったことも関係しているが、その頃は「心的要素」がこれらからなると考えられていたためで、現代心理学ではもはやその影はない。それなのに相変わらずこれらを研究しているのは、「目は心の窓」と言うように、外界と心を結ぶ重要な連絡路だと考えられているためである。  

 では「感覚」と「知覚」はどう違うのだろうか。  

 この問題に答えるのは難しい。  

 そこで、現実にこれらの用語が用いられている例から考えていこうと思う。  

 「味覚」は「感覚」でもあるが、「知覚」でもありうる。では目の「奥行き知覚」ではどうだろうか。「奥行き感覚」と言う用語は存在しない。同様に「錯視」現象は「知覚心理学」の一大テーマではあるが、「感覚心理学」のテーマではない。これらのことから、比較的単純な刺激受容を「感覚」、そうでないものを「知覚」と呼んでいるらしいことまでは理解できたであろう。  

 もっと厳密に言おう。  

 「知覚」とは「感覚受容器から脳内の過程までの一連の刺激処理」のことを言う。したがって単に感覚するだけではなく、その脳内処理までを総称して「知覚」と呼ぶのである。  

 運動知覚から後の節で後述する「カクテルパーティー現象」まで、知覚研究は相当の広さと深さを持った領域である。さらに高次脳機能である「思考」などを含めた場合、それは「認知」と呼ばれる。  我々はこの章の中で、錯視、カクテルバーティー効果やマガーク効果や文脈効果、遠刺激と近刺激、恒常性、主観的輪郭、運動情報処理、視野の安定、奥行き知覚、知覚特性の応用などを扱う。あるテーマは新しく、あるテーマは昔から追求されてきたテーマである。  

 これらの諸テーマは、人間の世界認識の基本的メカニズムを知るという目的だけではなくて、前章で学んだ信号検出の理論のように、実用的な場面での実践にも役に立つものが少なくない。たとえば飛行機のコックピットをどう設計すべきかとか、いかにして福祉に役立てるか(例えば、お年寄りに優しい知覚世界の構築)とかの応用的諸問題の解決の糸口を探ると言った意味でも重要な問題であることは間違いないであろう。この意味で、現代ほど心理学に負わされた使命が大きい時代はないといえる。知覚の問題は、人間工学の問題の解決の良きヒントを与えるものなのである。

講座 心理学概論 5 学習心理学 11 学習にまつわるエトセトラ

 スキナーは、反応に関係なく強化が15秒おきに与えられるような状況にハトを置くと、さまざまな反応が非意図的に強化されることを見出した。これを「迷信反応」と呼ぶ。  

 ハーロウは、弁別学習をサルで試みたところ、単にスキナーが指摘するような刺激-オペラント-強化の3項随伴性が学習されるだけでなく、課題に共通の課題対処能力も学習されることを見出した。これを学習の構え(学習セット)と言う。  

 ハトの学習能力を知る目的で、よく用いられるのが「見本合わせ」課題である。あるスクリーン上の図形の一方に強化刺激が呈示され、一方には非強化刺激が呈示される。再び同じ刺激が同時に呈示されたとき、強化刺激に反応すれば、課題をクリアしたことになる。「遅延見本合わせ」課題では、両者を呈示し反応したら、一定の間隔を空けて再び両者を呈示する課題で、再び呈示されるものが見本刺激と異なる場合を「象徴見本合わせ課題」と言う。  

 運動学習において、線分を書く課題を被験者に行わせ、運動学習でも「効果の法則(満足を得た反応が行動を強化するという法則)」が働くとソーンダイクは主張したが、トロウブリッジらは運動学習に効果的なのは、罰でも強化でもなく「結果の知識(以下KRと略)」であることを見出している。  

 再びスキナーの話に戻るが、彼は行動理論を臨床応用することにも取り組んだ。消去と強化を織り交ぜて望ましい行動を獲得させる手続を「シェイピング」と言うが、これを編み出したのも彼である。  

 時代をさかのぼると、ウォルピが「系統的脱感作法」を産み出し、恐怖症の患者に怖いもののリスト(不安階層表)を作成させ、不安の低いものから次第に高いものへとリラックス反応を連合させて克服させるという成果を上げていた。  

 その後スキナーに至るまで、刺激を飽和させて刺激の低価値化を行うと、消去したい行動を消去できるようになる、刺激性制御(弁別)により形成された行動を消去するために刺激を取り除くと行動を消去できるなど、臨床応用の幅が広がった。  

 最後に、バイオフィードバックについて述べておこう。  

 通常自律神経が支配している発汗、心拍、皮膚温度などを、機器を通して被験者に常に知らせ続けるという手続きを取ると、初めのうちは制御できなかったこれらの自律神経系の活動を意志的に制御できるようになる。このような現象を「バイオフィードバック」と呼ぶ。赤面症などの治療に有効であることが分かっている。

講座 心理学概論 5 学習心理学 10 動物の言語学習

 動物にも言語は学習できるのだろうか。  

 この素朴な疑問に答えようと、特にアメリカで20世紀初頭から動物に言語を教える研究が散見されるようになってきた。  

 はじめは、動物に言語を教える研究は、ヒトと近縁のゴリラ、オランウータン、チンパンジー、ピグミーチンパンジーに限られていた。まずはそれらの研究を概観し、次いでそれ以外の動物の言語学習について概観する。  

 類人猿を用いた初期の研究としては、ヘイズ夫妻のチンパンジー、ヴィキの研究が挙げられる。英語の学習がヴィキには求められた。その結果、ヴィキは6年間費やしてわずか4語しか学習できなかった。チンパンジーには、言語獲得は不可能なのであろうか。  

 19世紀も後半になると、ガードナー夫妻がワシューというチンパンジーに音声ではなく、アメリカ手話環境で言語を教えることを実践した結果、3年半のうちに130語の動詞、名詞、形容詞を獲得し、大成功をおさめた。チンパンジー同士の会話や世代間伝播も確認され、ゴリラやオランウータンにも同様に言語獲得できることが確認された。手話ならヘイズ夫妻のヴィキのように、発声する必要がない。人間のように発声器官が発達していない類人猿では、別の方法によって言語を習得させなければ、彼らの言語能力が調べられないことが明らかになったのである。  

 同時代にランボーは、レクシグラム(要素図形を組み合わせた複合図形)を使って、ラナと言う名のチンパンジーに要求文を発しさせることに成功した。  

 プレマック夫妻は、サラというチンパンジーにプラスチック彩片を用いて否定詞、前置詞、条件文、重文が理解できることを明らかにした。  

 さらに最近では、サヴェージー-ランボーがピグミーチンバンジーのカンジが、身振りとレクシグラムを交えて、一定の語順の自発性の高い発話をすることを報告している。  

 これまでの研究で、類人猿は数百の単語を覚えられることも確認されている。人間にするとおよそ2歳半の言語能力に匹敵するという。  

 ここまでは類人猿の言語能力を見てきたが、次にそれ以外の動物の言語能力にも触れておこう。  

 語順によって意味が変わる手旗信号のようなものに従うことを、ハンドウイルカではハーマンが、カリフォルニアアシカではシュスターマンが報告している。  

 オウムの一種のヨウムが、英語の質問に対して色、材質、数などを正確に答えられることをペパーバーグは報告している。  

 このように、ヒト以外の動物にも言語獲得は可能であって、動物がそれぞれの種内で何らかのコミュニケーションを取り合っているらしいことも分かってきた。動物の言語学習は、そのうちのごく一形態に過ぎないのかも知れない。

講座 心理学概論 5 学習心理学 9 チャンキング

 電話番号を一時的に覚えて、途中に余計な妨害刺激がなければ、我々は電話番号を正しく入力できるだろう。これに対して、語呂合わせなどの記憶術を使わないならば、円周率を正確に覚えられる範囲は限定されたものになるだろう。  

 何がそうさせているのだろうか。  

 19世紀の話になるがスコットランドの形而上学者ウィリアム・ハミルトンは床に豆粒を落としたとき「6粒以上になると混乱する」と述べている。 

 1871年にウィリアム・スタンリー・ジェヴァンズは、豆粒を箱に投げ入れたとき、何個の豆粒なら正確に答えられるかについての実験を行った。3、4粒の時は極めて正確に答えられ、5粒だと時々誤った報告をし、10粒でそれが頻繁になり、15粒だと正答することは不可能であった。その後ジョセフ・ジェイコブスが数列を読み上げ、直後に書き留めてもらうという手続きで何桁までなら正確に書き留められるかについての実験を行ったところ、8、9桁までなら正確に書き留めることができることを実証した。  

 しかし、我々の数唱においては電話の市外局番のようにひとまとまりにして覚えている数字も少なくない。自分の誕生日を覚えていないひとはいないだろう。心理学ではこのまとまりのことを「チャンク」と呼び、まとまりを作ることを「チャンキング」と呼ぶ。  

 それが如実に示されたのが将棋やチェスである。プロ棋士は駒一つ一つをではなく、よく現れる盤面のパターンを1チャンクとして認識することが知られている。その証拠にランダムに駒を配した盤面では、棋力が素人並に低下する。  

 通常ひとは数万から数十万のチャンクを持っているという。しかしそれは長期記憶においてであって、短期記憶における場合ではない。  

 この分野で最も有名な論文は、G.A.ミラーの「The magical Number 7 plus or minus two 」であろう。彼は様々な実験を行って、人間は7±2のチャンク数だけ短期記憶できることを示した。これは恐らく我々の経験則に一致するものであろう。他人の電話番号も誕生日もそれくらいの桁数である。  

 いわゆる「記憶術」もこの理屈を使っている。冒頭に出した円周率の記憶は、特定の場面の連続として記憶すれば、際限なく長期記憶できることは、このような能力を駆使したひとだけに可能なことが示されている。

講座 心理学概論 5 学習心理学 8 動物のカテゴリー学習

 

 猟犬は追うべき獲物が何なのか判断できなくては、みずからの身を危険にさらすことになりかねない。  

 果たして動物は概念(カテゴリー)を学習することができるのだろうか。  

 概念は常に多形的である。「鳥」を「空を飛ぶもの」と定義してしまえば、ペンギンやダチョウは「鳥」ではないことになってしまう。カテゴリーの例として、「e、Z、A、u」という文字群を支配する法則は「母音か大文字か」のうち1つを満足するものの集合である。概念はこのように多形的であり、デジタルには変換できないという性質を持つ。  

 R.J.ハーンステインは、サルやハトにもカテゴリー学習が可能なことを示した最初のひとである。彼の研究のひとつにハトを被験体とした「樹」の弁別訓練がある。ハトに「樹」とそうでないもののスライドを見せ、「樹」に反応すれば報酬がもらえるという弁別訓練をした。  

 ハトは「セロリ」や「蔦」には反応せず、正しく「樹」のみに反応することが示された。  

 これらのことからF.S.ケラーやW.N.シェーンフェルドは、カテゴリー学習を「カテゴリー間の弁別とカテゴリー内の般化」と定義した。カテゴリーとは個々の刺激にクラスを対応させ、それに応じて同じクラスに属する刺激に同じ反応をすることである。  

 ハトは「特定の人」「魚」「水」「鳥」「人工物」なども弁別できることが判明している。このように動物の示すカテゴリー化は事例学習とカテゴリー内の類似性に基づく刺激般化で説明できると言う研究者も現れ、刺激の類似性の特性が加算されてカテゴリー学習が生ずるという特性加算モデルなどが提唱されている。  

 S.E.G.リーとハーンステインは、刺激クラスの共通の機能によって同一の反応ができるようになったとき、「機能的等価性が学習された」、すなわち概念が形成されたと考えて良いと主張し、新奇刺激にも反応を逆転する訓練において、逆転反応に般化するようであれば、機能的等価性が学習されたと言って良い、と考えた。ただし、刺激クラスが反応を決定していることが分かるような実験でなければ、この仮説はただの仮説のままである。見た目の類似性が反応を決定することを確認できたとしても、機能的等価性獲得のメルクマールにはならない。その点を考慮してヴァーンは類似性がバラバラになるように無作為に40枚のスライドを2セットに分けて実験し、結果を検討した。結果はハーンステインらの知見を支持するものだった。  

 動物も種によっては、適応の必要から概念獲得の能力を発達させたものと考えられる。有効な環境適応には、概念能力は強力な武器なのである。このことから言えることは、概念は一次的にコミュニケーションの必要から生まれた訳ではなさそうである、と言うことである。

講座 心理学概論 5 学習心理学 7 意味学習

 我々はときおり意味のわからない言葉に出くわし、他人に訊いたり、辞書で意味を調べたりして、会話や文書作成の役に立てていることだろう。  

 ここでは3つの意味学習について触れる。    

 1910年代、カナリー諸島のテネリフェ島でケーラーはサルタンという名のサルを被験体として、問題解決にかんする重要な実験を行った。それは、檻の中に短い棒、檻の外に長い棒、檻から少し離れたところに好物のバナナがあると言った問題状況で、サルタンがどうやってバナナを入手するかについての実験だった。サルタンはしばらく躊躇していたが、突然ひらめいたように短い棒で長い棒をたぐり寄せ、長い棒でバナナをたぐり寄せることに成功した。ゲシュタルト心理学者だった彼は、ただの棒を「長い棒をたぐり寄せるためのもの」「バナナを取るためのもの」という意味を与え、認知的構造が変化すなわちゲシュタルト心理学で言う「学習」したためにサルタンはバナナを手に入れることに成功したのであると考えた。このような学習を「洞察学習」と言う。  

 新行動主義者トールマンは1932年の著書の中で、白い通路を走れば餌がもらえ、黒い迷路を走れば餌がもらえないと言った状況に置かれたラットは、白-餌、黒-無と言った「サイン-シグニフィケート」関係を学習しているのであって、刺激-反応関係を学習しているのではないと言う「サイン-ゲシュタルト」理論を提出した。これはソシュールの「シニフィアン-シニフィエ」理論の学習心理学版だと言え、彼がいかにゲシュタルト心理学の影響を受けているかがうかがい知れようというものである。  

 さて、最後は筆者の知能理論の学習心理学的側面の紹介になる。  

 我々は知らない単語に出くわすと、TPOを考えて意味を推測しようとする。ここに子どもがいて、目の前にバナナとお母さんがいるとしよう。お母さんが「ホラ、バナナ」と言ったとすると、目の前の刺激A(バナナ)は言語刺激「バナナ(B)」だと推論的に一時的にでも断定できるだろう。この「対象の該当についての推測的断定」が言語習得の諸相を説明するだろうと言うのが筆者の考えである。  

 このように「意味」の学習には、高次精神機能が必要となるが、それを実現している背景には古典的条件付けがかかわっているとするパブロフのような立場から、オペラント(道具的)条件付けがかかわっているとするスキナーの立場など、諸々の立場がある。いずれが正しいかは、多々の実験等によって次第に明らかになるものと考えられるが、だからと言ってケーラーやトールマンの知見が色あせることはない。我々はそれらの知見を計算に入れて、理論構築すべきだろう。