行動経済学では心理的痛みを経済の考察の主眼に置いていたが、経済現象に見るべきプロブレマティックは、当たらずとも遠からじであるとの感慨を持たざるを得ない。
それについて簡単に考察する。
いわゆる経済行動がどうして成り立つのかは、(物物交換も含めて)守銭奴的な心理的痛みによるのではなく、他人的な意味での「負い目」をその原点に見出さずにはおかない。
したがって、経済行動を分析するのに必要なのは、他人的な「負い目」の社会的動向を見ることであり、そうして初めて正しい経済的分析が可能になるのである。
しかし、社会には僕のように他人的な「負い目」を作ったり「負い目」があっても先立つものがなく、そのような才覚のない人間の方が過半のように見受けられる。そのうちのどれだけかの人間は「就職」によってそれを「克服」しているのが現状であり、起業の才覚のある人間はごく一握りである。
これは、資本主義をと共産主義をと問わず我々に突きつけられた金銭経済の人間的矛盾だと言える。そのような世界なり時代なりでは、ごく一握りの才覚ある人間、あるいは創業家の跡継ぎがリーダーになり、尊敬と羨望を集めることになる。
僕もホームレスを経験し、社会の冷たさを心底味わった人間なので、何とかしようとこれまで300ほどの生きてゆくための金要らずの知恵を案出したが、それもホームレスのときのように今日の食べ物にも困っているときにはそんなことを考える余裕はなく、何とかホームレスから脱却し、精神的に余裕ができてから捻り出した知恵に過ぎない。「貧すれば鈍す」とは良く言ったものである。
「負い目」から現在の日本経済を見ると、「負い目>負い目のフォロワー」と言う現状が続いている。これは物価の高騰と貧富の格差(つまり、一握りの人間や企業への富の集中)と言う現実に影を落としている。
我々は、この現実を直視し、社会のあり方の見直しや社会の制度設計、ないし現状の範囲での手の差し伸べ方(涙ぐましい努力としてはお金にするためのスレッショルド(支払いの難易度)を下げるなど)を真剣に考えるべき局面に直面している。
いずれにせよ、我々はそのような大局観を持ってこの難局を打破せねばならない。
それには、まず貧困の現場を見ることである。社会の大局観と貧困の現場は決してかけ離れた問題ではなく、不即不離の関係にある。
我々は平和主義のもとで育った人間である。絶対的平和主義を貫きながら、すべての人間に対して良き隣人でありたい。