関根豊松に僕が言われたこと

  
 僕は天理教その他いかなる宗教とも無関係である。だからいかなる超能力もいらない。

 「関根豊松」でググると、いろいろな彼の超能力とか説話が出てくると思うが、僕は彼の言行が支離滅裂に感じられたので、彼に対する印象はネガティヴと言う他はない。

 ただ、彼の超能力が「プラシーボ効果」によると言う仮説が間違っていることは明確に断言しておく。なぜなら、彼による治病が有効だったほとんどのひとは、その親類縁者が彼に治病を嘆願したケースがほとんどだったからである。したがって「プラシーボ効果(バーナム効果)」がはたらく余地はなかったと考えるべきであろう。

 これは彼の講話を直接聴いた者でないと分からないと思うが、とにかく屁理屈とこじつけが多いのであった。具体例を挙げると、「ハイと返事できないひとは肺病にかかる」とか「頑固なひとはがんになる」…である。おそらくこれらの屁理屈と言うかこじつけは、彼が見た一例だけを取ってそう言っていたように思われる。

 加えて、世界の真の姿と言う意味でだと、ロスチャイルド家による世界の経済的植民地化など不思議なことに決して語られることのない大問題や深刻な社会弱者(ホームレス、貧富の格差など)の問題などには一切触れずに人間を語ることは、決して世のため人のためにはならないのに、それらは一切「因縁」のひとことで片付けられていた。彼を超能力者にした天と言うものそのものの眼力がおかしいと感じるのは僕だけであろうか。天と言うものには骨がないのであろう。

 天理教の掲げる「陽気ぐらし」と言う理念にも大きな疑念がある。天国をみているひとと地獄にあるひととでは正直な心情はまったく違うはずである。それを無視した「陽気ぐらし」と言う理念には同意できない。僕は苦労は好んでするものだとは思わないが、苦労が苦労たり得るのには、それが本当に苦労だからであろう。人生に春秋がなければ苦労は功徳たり得ない。このように、人生を大きなところから見ると、「陽気ぐらし」と言うのは、人生の功徳たり得る苦労(それは決して生やさしいものではない)のプロセス的な全否定なのではないか。例を挙げると、徳川家康の人生は断腸の思いの連続であったが、彼が「陽気ぐらし」などと浮世離れした考えを持っていたわけではない。また、アメリカ人は陽気でオープンだと言われる。彼らの陽気さの影には相当な性的乱脈も見られ、一概に陽気であることが人間の正しさを担保してくれるわけでもない。

 天理教では人間は「泥海」から産まれたと言う。僕には僕なりの人間の誕生についての見解(現在のような海水ミネラルと特定の周波数、そしてその環境を作ったシアノバクテリアによって育まれたナマコ類が転成した海中は虫類が人間の祖先)があるが、もし人間が「泥海」とかかわるとすれば、それは人間の誕生においてではなく、滅亡のときのことだと思える。天理教の教義を聞いていて僕が不快に思うのは、何とでも言えることを何とでも言えるようにかなり大風呂敷で説いておいて、いつも「科学でもそう言われている」と自説の傍証として無批判に科学を使い、自己を正当化する心の醜さである。かく言う僕は、人間の思考と言う枠内では科学を信奉する人間でもなければ学問を信奉する人間でもない。彼らには放縦な「科学」や「学問」の弊が良く分かっていないように見える。僕は教義とか教条とかの名をまとったイデオロギーには嫌悪感を覚える。それがどれだけ人間の自由を踏みにじってきたことかと。これは宗教に限らずあらゆる人間の活動に言えることだが、「人間をある思想に丸め込む」と言う心性は、どけだけ人間の良き可能性を封じてしまっていることだろう。外面ではなく自分の肚のうちに(それがどんなに微妙な問題であろうとあらゆる問題についての)善悪(いや、善悪だけはない)がない人間は、倫理的にも道義的にも、ひとり野に放り出されたとき、きわめて弱い人間であることを彼らは理解しているだろうか。

 宗教とかイデオロギーと言うものは、まさに「人間をある思想に丸め込む」ことなしには成立しない。結果として人間個々人の地力は落ち、了見が狭くなる。そのせいか、僕が若い頃に天理教に集まる若者たちを見ていて痛切に分かったことは、彼らの心はとても鬱屈していて息苦しいものだったと言う現実である。それで良く思ったのは、このひとたちに「陽気暮らし」などと言う絵空事はとても無理だと言うことである。何だかまるで彼らは収容所に集められた囚人の観があった。その意味で特に印象に残っているのはG君兄弟である。彼らは自分の翼をまったく広げることができていなかったように強く感じた。

 関根の「鉄拳制裁」は知るひとには良く知られたことだが、そのような奢った態度で「愛町」を名乗る資格があるのか。少なくとも僕の理解では、愛とはそう言うものではない。そしてそこからして呆れたことに、そうして「育て」られた彼の弟子に、ひとりも彼に伍する人物は現れはしなかった。とすると、彼の超能力は、およそ「徳」とか「道」の問題などとは何ら関係のない、ただの生まれつきの素質としか考えられない。彼の言説と超能力は完全に切り離して考えられなければならない。

 そんな彼に、ガキの僕が言われた唯一のことは、「この子は賢いよ」の一言であった。

 当たってはいまいが、遠いガキの頃の思い出話である。

 彼は大変苦労した人間であったが、僕も苦労その一点においては病苦・ホームレス生活・犯罪被害…と負けてはいないと自負している。ただひとつ彼と僕を分けるのは、願いが叶う人間(関根)か叶わない人間(僕)かである。この両者の個性は、「力」と言う一点において、対決の名からはほど遠いものである。何せ僕には超能力はないのだから。

 関根は上述の通り、人助けの力を得ていることで他にマウントを取るようなところがあった。それは正しくはない。だが、僕にもひとりの人間として良く分かるのは、神の懐に抱かれ人助けができる人間になると言うのは、人間にとって最高の幸せであって、関根が人助けをやめられなかった心理と言うものは僕なりにでもとても良く分かる気がする。やはりそれは人間にとって最高の生きがいであることだけは間違いない。

 僕は関根のようなご神徳には与れなかったけれど、代わりにこんなことをやっている(ホームレスがお金なしに生活できる程度までは仕上げてある…これで「生活に困ったら宗教に」と言うひとは減らせると思う)。その方が僕の水には合っている。繰り返すが、宗教やイデオロギーは人間としての地力や了見を落とすばかりではなく、その枠は生活のあり方が特定の人間の発案に傾きがちになりルーティーン化してしまい「これは問題でこの方が良い」と校合されなくなり、「そのひとの味」を消してしまう。宗教やイデオロギーではなく、僕には限りない自由があるからそれができる。宗教やイデオロギーでは教義教条と言う「踏み絵」を踏まされることなくその恩恵に与ることは無理である。

 僕は関根の肉声を聞いた最後の世代である。

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