楢山節考(ならやまぶしこう)

 
 「楢山節考(ならやまぶしこう)」と聴いて、「それ、何のこと?」と思う若者が多いかと思う。ある世代以上の方ならお分かりの通り、早い話が「姥捨て山」のお話である。

 僕は現代の老人ホームにその典型を見る思いがする。このことについて思うところがあるので、それについて述べてみたい。

 僕がとても不思議に思うのは、どうして年輪を重ねた人生の先輩であるお年寄りに、人生の辛酸とか含蓄とか経験について思う存分語っていただいて、若者世代への心の糧をつなぐような活動がこの国にはないのか、と言うことである。

 子どもが老人ホームを「慰問」するとき、まるでそれが当たり前のように子どもたちがただ歌って踊って、それに老人たちが拍手する姿しかないのは、本当に社会の財産の持ち腐れのような気がする。そのこと自体がどれほど老人の精神衛生上プラスなのか、甚だ疑問である。

 これは僕だけの妄想ではない。心理学者の下仲順子さんによれば、高齢者は概して若者よりもものごとの理解も良いし、要領も答え方も良く、若者よりずっと芯がありますよ、と言う。

 少なくとも経験値と言うことで言えば、我々のような若造(筆者は58歳である)が老人に勝てる道理がない。ところが、それが社会の財産になっていないことをとても悲しく思う。

 幼稚園児に人生を語ることがお年寄りに苦手であろうはずがない。彼らは何世代もの子どもたちを育ててきたのだから。それが小学生、中学生…となれば話はなおのことではないか。

 だから現代の老人ホームを見て、「楢山節考」をそこに見る気がしてならないのである。長い人生経験がものを言わずにいるのは、金・銀・ダイヤモンドをドブに捨てるようなものなのではないだろうか。

 

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