貨幣の秘密

 マルクスが「ドイツイデオロギー」や「資本論」で追求していた「貨幣の秘密(レゾンデートル)」は、結局彼自身分析できないまま「資本論」で算盤に乗せようのない出来損ないの「搾取率」とか「価格形成のメカニズム」の説得力そのものへの疑問につながり、結局その影響力は限定的であった。なぜかと言えば、結びつく論理必然性のない事象同士を無理矢理関係づけようとしたためである。

 心理学でもミクロ経済学的な「行動経済学」が台頭してきているが、経済活動そのものの説明には無理があると僕は見ている。

 「価格」は「需要と供給のバランス」で決まる、と我々は学校で教えられてきた。

 ところが、我々のような零細企業の経営者にとって、この理説が嘘っぱちであることは身にしみて感じてきたところである。

 貨幣価格の規定因は、大雑把に言えば「それぞれの事情で決まる」、もう少し正確に言うと、「さまざまな資源の社会的限定性で決まる」と言うべきかと思う。したがって貨幣とは「さまざまな自然・人工資源の社会的限定性認知の一意な測度(ものさし)」だと言うことができる。それと、いわゆる「価値」と言うのは社会的限定性と換金可能認識があってはじめて決まり、したがってあるところからそのひとのモラルや人間性を測ることができる。アダム・スミスの言う「希少性のパラドックス」は、価値希少説に立っているから起きるだけのことで、価値の規定因の捉え方としては少し誤っている。

 たとえば違法薬物の売人にバイヤーが確かめるのはいつでも「モノは確かなんだろうな」と言うことであり、金本位制の方が変動相場制よりも物価が安定しやすいのはこの理由による(ただし、経済活動の多様性は犠牲になる)。

 それはサラリーでも同じことである。「財やサービスを巡る支出分の信頼度」でサラリーも決まる。そもそもは、お金と言うものは、王様が奴隷に差を付ける(差分化する)ための恩寵であった。それが一般化してその規定因が少し変化したと考えられる。

 つまり、国を富ませたいと思うのであれば、「財やサービスを巡る請求分の信頼度が確かな財やサービスを国民の皆が豊富に保持していること」だと言うべきである。そうでなければものの価格は下落し、札束はただの紙切れに失墜するだろう。政府のマネーサプライで経済をコントロールできると勘違いしている者もいるが、よほど外国為替市場で自国通貨が高くない限り物価が上がるだけで国民生活にはマイナスだと悟るべきである。最近流行の「MMT理論」などでは、こうした我々の見方に否定的であるが、実体経済のないところでマネーサプライをしてもインフレに陥るだけである。行ってせいぜい「バブル」や「幻想下の経済」の説明理論に止まると思う。

 賢明な読者諸氏は、なぜ現在我が国の「デフレ」が長期化しているのかについての察しがお付きかと思う。それは「過当競争」と「わけの分からない(=信の置けない)商売が巷に溢れている」からだと。これでは財布の紐が固くなってデフレに陥るのは当たり前である。商売に明確な白黒の付く経済的状態が整理・再編されれば現下のデフレから脱却することはそんなに困難ではない。いわゆる「アベノミクス(大胆な金融政策・積極的な財政政策・民間投資を喚起する成長戦略)」がなぜ的外れなのかと言うと、「過当競争の知恵による緩和」と明晰なマーケットの「白黒見える化」に取り組んではいないからである。デフレの問題が、「商売の量」だけではなく「商売の質」の問題だと言う認識が決定的に欠如している。

 また、健全な家計の運用のために、収入に対する消費の割合を決めておくのが良い。

 しかし、そこには一人間としての無理はないのか?我が国は150年前までは大方百姓の社会であり、商業の国ではなかった。それをいきなり国民皆商人にすると言う強引な考えは社会矛盾を増強する。このようなときの急場の知恵としては、その手の知恵者に考えを皆が拝借するよりない。

 マルクスは、これらの内に「政府への信託」あるいは「社会における共通合意」のマジックらしきもの(実はそれは「貨幣の賠償可能性」が与えるものであってマジックなどではないし、「貨幣の賠償可能性」を支えているものは「実体経済活動の豊富さ」に帰着する」)が含まれることなどからそれを「貨幣の秘密」と呼んだと思われる。

 だがマルクスは、たったこれだけのことを理解できなかったばっかりに、諸国民をミスリードするという失態を犯したのである。大きな目で見た場合、「様々な認識主観それぞれにとってその社会にどれだけの光りモノがあるか」に貨幣供給量および預貯金量は依存するのである。このひとつの命題を認識しているだけで、社会経済は適正になしうるのである。なぜならそれは、経済と言うものは、「One for all」も「All for one」もあることを物語っているからである(しかし、少し考えれば「本来の経済」と言うものは自然生態学に反するべきではない)。

 もうひとつ指摘しておきたいのは、経済にかかわる人心がディフェンス(防御)局面にあるときは物価は下落しにくく、オフェンス(攻め)局面にあるときは逆のような状態になりやすい、と言うことである。MMTが有効なのは、人心が長期のディフェンス局面にあるときに過ぎない。何故か。それは人心がディフェンス局面にあるときには財布の紐が固くなるからである。逆にオフェンス局面になるとひとびとの財布の紐は緩み、市場の貨幣供給量が余剰となり、物価は下落しやすい。無論、それは社会における「光りモノ」の量が同じ条件下で、と言う仮定の元でのお話である。これが企業経営者のお話となると、「光りモノの確信」=「先見の明」がその企業の命脈を握ることになる。勿論それらはすべて、ひとびとの経済についての状況認知と言う心理学的過程を前提とする。

 なお、これからの時代は単なる「ものづくり」をひたすら追求するのではなく(それは自然とのミスマッチを増大させる)、各大学に新設の「リサイクル学部」で学んだ実務家・専門家が「ものの輪廻」を志向し富み栄えるような社会へと徐々にシフトチェンジしてゆくべきと考える。

 ※お断り
 僕はマルクス主義とも資本主義とも無関係です(信用は人心でも担保可能/サービスの内には労働も含まれ、労働者と経営者、労働と報酬(=財)を分けて考えるのは間違い/現代では財のウェイトが重すぎるので様々な問題が生じている)。

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