「学習」を考える

 心理学関係の人間なら、「学習」と言うのは「強化と罰」によって成り立つものと強く思っている向きも大きいであろう。

 その発想の根源には、いわゆる「心理学は目に見える行動のみを研究すべきである」と言う「行動主義」がある。そう考えると、当然「強化や罰」も可視的ではなくてはならない、と言うお話になる。

 しかし、その発想には我々の「学習」についての大きな見落としが7つはある。

 我々は、「雰囲気」や「ムード」を感じることによって行動を起こしたり抑えたりもする。無論、それらは「強化や罰」でもなければ可視的なものでもない。「雰囲気」や「ムード」と言うのは、惹起する行動との必然的関係にはない。取り敢えず、このタイプの学習を「誘発的学習」とか「閾値超え学習」と呼ぶことにしよう。その手の「学習」は、後々自分を振り返ったとき、「あぁしたことは感心した」と気付いた時点で定着するのであろう。こうした学習は、強化されるか罰せられるか以前に、要不要の判断が先行する。「学校なんか行かなくて良い」と言う親は、子どもが学校で授業を受けること自体に弊害があるのではないか、最低限の生活をする上でそれがどれほどの意味があるのか、と心配しているかも知れない。つまり、我々が意識しようとしまいと、学習の前提として価値観が存在するのである。

 この手の学習で、我々にありがちなお話も指摘できる。ロフタスの「事後情報効果による虚偽の記憶」と言う問題から派生して、我々は何でもない記憶(たとえば、自分の「ウ○コが臭かった」と言う記憶)が、後々テレビなどで医者が「ウ○コが臭いのはがんのサインです」などと言っていると、どんどんそれを気に病むようになってくる、と言うようなお話である。これは、中性刺激が罰子に不安を介して変化してゆく例である。つまり、こう言うことは学習心理学では否定され続けてきた「逆行条件付け」が意識的存在の人間では当然のこととして存在する、と言うことである。この類いのことは、「言われて気付くこと」と言えるであろう。

 「自我のあり方」も「学習」を規定する大きな要因である。大きな括りで言うと、内向的なひとと外向的なひとの「学習」の様相は全く違うだろう。

 「好奇心による学習」もそうであろう。それは「報酬や罰」と言う中間過程を経ずに成立するし、「何が良くて学習したのか」の理由を探しても一意に特定の何かをそうだと断定しきれないし、「好奇心」のせいで何もかも学習するのかも知れない。この場合の学習原理にアリソンとティンバーレイクの「反応制限説」による説明の余地はない。なぜなら学習素材XとYの間に関係があるかどうかは分からないからである。

 「行動のスタンダードさ」も我々の学習を規定する大きな要因であろう。周囲から「君の顔だったらあんな高嶺の花にアタックしても見込みはない」と「暗黙のプレッシャー」をかけられているのを想像すると良い。「プレッシャー」はその成り立ちからして頻回性の原理から生じるもので、「報酬と罰」には分解できない。いわゆる「常識」と言うものもこの中に入ると思うが、これは我々の感性に依存する。これも「是認」や「否認」と言った「強化と罰」以前の問題である。ただ、「ほら見たことか」と言われたくないだけ程度の消極的な理由で維持されている行動は数限りなくある。

 「恋」のように強化子が何かが分からない人間現象も指摘しておくべきだろう。「恋」においては「強化」されなくても維持されるという特質がある。アイドルの追っかけなどもこの範疇に入るだろう。

 ケーラーが見出した「インサイト」もそうであろう。特にヒトの場合、その成立には「欲求」や「強化と罰」ではなく「価値観」や「視点」や「考え方」や「感受性」や「正しさ」と言う「報酬や罰」とは異なる心理的前提がワンクッションとして必要である。「決して強化されることのない」難病治療法を一生追い求めて人生を終わる医学者はいくらでもいる(この場合は無駄口をたたくとすれば「予期」が「報酬」だとこき抜かすことはできる)。

 最後に、学習の本質が本当に機械的即物的な「強化と罰」にあるのかを振り返ってみる必要がある。多くのひとは「強化と罰」によってより、「結果の知識」とか「動機付け」によって「行為」を決めるのではないだろうか。このあたりは、もしかしたら大きなパラダイム・チェンジを必要とするのかも知れない。

 これらのことから、我々は「行動主義」を「人間の学習の説明」さえ全般的に疑わしい「意識なき心理学(Psychologie ohne Bewusstsein)」と断じざるを得ない。

 バンデューラの「観察学習」も含めて「学習」をめぐる行動主義の視野にはないものが、探せばいくらでも出てくる気がする。どうしてそうなのかと言えば、心理学者というのは「仮説」と言う名の「決め付け」をするのが好きだからである。

 時は無限ではないので、人生には「失敗という名の成功」も「成功という名の失敗」も「答えがあるという答え」もあれば「答えがないという答え」も数限りなくある。たぶんそれは神様でも何がどちらとは分からないであろう。我々には「時代」や「生活様式」と言う極めて境遇的で個別具体的な縛りがあるからだけでそうしていることで埋め尽くされているためである。

 

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