講座 心理学概論 6 知覚心理学 15 奥行き知覚

 もし我々が視空間の奥行きを感じられなかったとすると、どうなるだろうか。100メートル先のものがそうは感じられないであろうし、常に「何かにぶつかるのではないか」と言う不安を抱えながら生きていくことだろう。  

 我々の網膜像は2次元的で、奥行き知覚は不可能なはずである。しかし、我々は奥行きを感じることができる。なぜなのであろうか。  

 ひとつには目が左右に離れているために微妙な左右の結像の差違が生じ、奥行きを知覚できると言う説明が可能である。このことを「両眼視差」と言う。  

 しかし、両眼視差だけで奥行き知覚を説明するのには難がある。対象が比較的近ければ、両眼視差だけで遠近の知覚が可能かも知れないが、対象が遠くにある場合、両眼視差は限りなくゼロに近づき、奥行きが感じられる可能性はきわめて低くなる。  

 では他に何が奥行き知覚を可能にしているのであろうか。列挙してみよう。  

 まず輻輳が挙げられる。輻輳とは両眼の視覚のなす角度のことで、外眼筋の司る眼球運動の情報から奥行きを推定できる。次に調節が挙げられる。目の毛様体筋による水晶体の調節情報から奥行きを感じることができる。また、輪郭も物体の表面曲率を推定するための重要な情報である。遮蔽も奥行き知覚に貢献する。何かが何かによって見えないとき、見えない側の対象の方が遠くにあると推定できる。また、現実の空間では線路の真ん中に立って線路を見るときのように、平行であるはずのものが放射状に見えることも奥行き知覚には貢献している。また、遠くの対象は光の散乱によってぼやけ、これも奥行きの手がかりとなる。前者を線遠近法、後者を大気遠近法という。肌理が均一な対象は近くになるにつれて肌理が粗くなるのでこれも奥行きの手がかりとなる。これを肌理の勾配と言う。また、大きさの恒常性で触れたとおり、対象は遠くにあるほど小さく見えると言う大きさも奥行き知覚を可能にする要因と考えられる。光源から対象に当たる光の陰影も、奥行き知覚に使われる。また、それによって作られる影も角度が変わるにつれ変化するので、これも奥行き知覚に使える。  

 以上、奥行き知覚に貢献する手がかりを列挙したが、対象が網膜像に投影されることを「順光学」、奥行き知覚のように網膜像から対象を推定することを「逆光学」と言う。  

 我々は、2次元的網膜像からいかにして正確な3次元空間を復元するか、と言う問題に脳内の計算を含めてきわめて多彩な方法で逆光学の問題を日々解きながら生活している。これに正面から挑んだ問題が錯視であり、脳内の計算法を逆手にとって我々の日常の知覚を明らかにしようとする試みであると言うことができる。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 14 視野の安定

 我々の視線は常に動いている。起床と就寝、運動などの際には視線が大きく変化する。だが我々はそれは自分が動いたせいであって、世界が動いたせいではないことが分かる。視覚入力と脳内処理は一体どうなっているのであろうか。  

 もし仮に、我々の眼球入力信号だけで我々が世界を知覚しているのだとすれば、眼鏡にくくりつけたビデオカメラの映像に等しい世界を見ていることになる。それは目まぐるしく変化し続ける動揺を伴う世界であって、我々の日常の知覚印象とは大きく異なる世界を見ていることになる。我々の現実の知覚は、それより遙かに安定している。なぜであろうか。  

 ひとつには運動由来の視覚情報を運動を斟酌することによって世界の安定性を確保している、と言うことができる。運動情報と視覚情報の統合によって視野の安定を得ていると言うことができる。たとえば、関節角度の変化を視野の変化に対応させ、脳内で計算メカニズムが発動し、世界が動いたのは、関節が曲がったためであって、世界が動いたためではないと推論することができる。この処理は知覚の早い段階から始まっていて、背側路に運動を好む細胞の存在が知られている。  

 けれども、それだけでは充分ではない。もし上記のような処理しか働かないとすれば、我々の知覚はきわめてエゴセントリックなものになり、環境に適応することは難しいことだろう。  

 では、どんな処理が必要だろうか。  

 もし、頭部中心の座標系によって自己記述しているとするならば、我々は地図を見て目的地に到着することはできないだろう。現実の我々は、地誌的情報、すなわち東西南北や標高などの情報をもとに目的地までたどり着くことができる。それは我々が環境中心座標系を頭で計算して、その中に自己を位置づけることができるためである。これが可能となるためには、慣熟が必要である。以前も触れたことだが、初めて行った町並みを自由に往来する事は難しい。それは「勝手が分からない」ためである。そのため初めて行ったときと町並みに慣熟したときに見る風景はきわめて異質なものに我々の目には映る。  

 ラットの学習実験を通してトールマンはラットの頭脳に「認知地図」が試行を繰り返すうちにできてくると主張した。これは我々の町並み体験にも当てはまる考え方であるように思われる。すなわち、ラットもヒトも環境への慣熟を通して、エゴセントリックな座標系から環境中心座標系を学習し、その体験空間内に自己を確定することを覚えるのである。  

 我々はこのような慣熟処理によって、環境情報を学習し、環境への適応を図っていると考えると、はじめて視野の安定がいかにして可能になっているかを理解することができ、未知な場所の慣熟処理の具体的な分析が可能となるスタートラインに立つことができるのである。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 13 知覚運動情報処理

 黒板に書かれた文字をノートにとると言う作業は、誰にでも経験があることだと思う。同様に、サッカーに興ずることや野球を楽しむことは、男性ならば一度は経験していることだろう。この「書写」、「遊興」の中身はどうなっているのだろうか。  

 筆者が述べたいのは、これらの「視覚-運動」関係のメカニズムについてである。一括して、「知覚運動情報処理」と呼ぶことにする。  

 つい最近、バッデリー(Baddeley,A.D.,1992)は、画期的な知覚運動情報処理のモデルを提出した。それは、「ワーキングメモリの理論」と呼ばれている。以下にその概要を示す。  

 それまでの理論(アトキンソンとシフリンの二重貯蔵モデル)では、短期記憶には情報保持の能力以外はないとされてきた。しかし、情報保持の能力しかないとすれば、本を読んだり音楽を鑑賞したりすることは、次を予期的に期待するとか、今見たり聴いたりしていることを意味的・対処的に認識することは事実上不可能だという結論になってしまう。  

 この困難を解消すべく、バッデリーとヒッチは単なる短期記憶と言う概念に代わって、短期記憶が長期記憶を参照するような情報処理機能も持っていると考えた。それが「ワーキングメモリ」と呼ばれるものである。  

 「ワーキングメモリ」の構造は、後にバッデリーが明らかにした。概要を示すと、中央実行系、すなわち反応系の配下に音を記憶的に対処的に処理する「音韻ループ」と視覚-運動を記憶的に対処的に処理する「視空間スケッチパッド」があって、中央実行系において両者は管理されている。これらはたとえば音楽を聴いたり、スポーツを楽しんだりするのに動員される。そして、これらは長期記憶と結びついている。中央実行系は、これらの結びつきを管理している。  

 コンピュータになぞらえて言えば、ハードである中央実行系は、ソフトである処理資源(心的能力)によって管理されている。処理資源には処理容量の限界があるので、中央実行系がうまく機能するか否かは、特定の認知活動が必要とする処理資源によって決まる。ここで言う処理資源とは、中央実行系を監視する心の働きのことである。  

 話を冒頭の黒板に書かれた板書をノートに取ると言う作業に立ち戻れば、いかにして、それが可能かということを、ワーキングメモリの概念を使って理解することが可能であろう。板書を視空間スケッチパッドが認知し、中央実行系が管理する長期記憶から板書の意味を一瞬にして検索し、ワーキングメモリにロードする。ロードされた情報は中央実行系を介して視空間スケッチパッドによって手の運動を引き起こし、ノートに書き付けていく。もしもアトキンソンとシフリンの二重貯蔵モデルが正しいとすると、このような行為は不可能である。  

 単純な行為に見えるこのような行為も、いざ理論的に説明せよと言われたら、大変な発想をしなくてはならないと言うことが理解できたであろうか。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 12 側抑制

 上図は明るさの恒常性において最も有名な例である。黒地に灰色、白地に灰色の四角形を配すると、同じ明度の灰色の明るさが白地より黒地の方が明るく見える。  

 ハートライン(Hartline)は、カブトガニを使って興味深い実験をした。彼は、様々な強さ、様々な持続時間の光刺激をカブトガニに見えるようにして、反応を電気生理学的に記録した。   

 カブトガニの目というのは個眼が千個ほど集まってできている。個眼一つ一つについて電気生理学的な反応をとると言うことは、反応のグラデーションを知る上で必要不可欠なことである。  

 この実験の結果、様々な刺激で同じ明るさの刺激を見ているにもかかわらず、中央の視神経には6、側方の視神経には10の明るさがもたらされることが分かった。このため、側方の視神経の受容した明るさは、中央の視神経の受容する明るさを抑制すると考えられた。この現象のことを「側抑制」と呼ぶ。また、ある範囲では視神経反応の持続時間と強度の積は常に等しいことも分かった。これを「ブンセン・ロスコーの法則」と呼ぶ。  

 我々が同じ灰色を見ても、黒地の方が明るく感じられるのは、黒地の側抑制によって灰色の暗さが抑制されるためと考えられる。これは、ベツオルドの拡散効果と呼ばれている。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 11 主観的輪郭

 図と地を分けるものは「輪郭(contour)」と呼ばれる。目は二次元の網膜像に集約されるが、そこから三次元の環境像を推定することは重要な問題である。灰色の背景の中をまだら灰色の猫が走るのを想像してほしい。背景の灰色と猫の灰色は区別がつかない。そのため、そこに猫がいると気づくのは一大作業である。実際、猿・猫・フクロウ・ミツバチは欠けている環境情報を補完する機能を持っていることが心理学的に証明されている。  

 しかし、現実にはどうであろうか。認知心理学によれば、高次の推定によってそこに猫がいると判断できるとされた。実際、まとまりのある動物が動けば、我々は容易に、つまり一大作業を伴わずに、「そこに何かいる」と判断できる。これは「高次の推定」の一例である。しかし、問題が残る。ミツバチが「高次の推定」すなわち輪郭をその小さな脳内で計算できるのかという疑問である。  

 皆さんはご存じないかも知れないが、黒い60°の切り欠きを持った円が切り欠きを内側に向けてやや離れて3つ配置された場合、そこにないはずの三角形が「見える」。あるいは2つの格子模様が隣接して配置されていると、滑らかな曲線が中央に「見える」。これらの現象のことを「主観的輪郭」という。  

 それは恣意的なものではなく、普遍的な現象だと言うことは、種に共通の認知が起こることから明らかである。ゲシュタルト心理学において、プレグナンツの法則、つまり「良い形」に認識が体制化するように人間の頭が働くことは先述した。果たして、上述の例がそれに当たるのであろうか。答えは明らかである。三角形が「そこにある」と感じること、滑らかな境目が「そこにある」と感じることは、プレグナンツの法則の必然的帰結である。  

 お気づきの方もいるかとは思うが、この現象は進化心理学にも通じるものを持っている。種の保存と言う観点から見れば、外敵をどれだけ速く発見できるかは、対処行動の水準を決定する上で重要な役割を持っている。対処行動の水準とは、「第一弾」「第二弾」などの打つ手の段階のことである。「第一弾」、すなわち最も速く敵を発見したときには、仲間に知らせる余裕を持つことができる。  

 主観的輪郭とは、知覚的生態学的な最適解である。それは網膜の段階に始まって、大脳連合野の段階まで連続的に継承される。細胞レベルで見ると、主観的輪郭、すなわちないはずのエッジ(色の急勾配)に応答する細胞は多い。  

 いずれにせよ、攻める上でも守る上でも重要なのが主観的輪郭である。  

 なお、聴覚においては、倍音認知(ミッシング・ファンダメンタル)でそれが言えることを申し添えておく。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 10 近刺激と遠刺激

 「鳩山さん」と誰かが呼んでいるのを、「里山さぁ」と聞き違えるようなミステイクは誰もが日常的に経験するところであろう。このときの他人の呼びかけのことを「遠刺激」、本人の鼓膜の振動のことを「近刺激」という(視覚ならば見られる物体のことを遠刺激、その網膜像のことを近刺激という)。  

 これらの関係は一意には決まらない。状況や位置によって変化する。たとえば錯視図形を見るとき、それ以前に何を見ていたかによって、見え方が変わってくる。  

 特に視覚においては、2次元の網膜像から3次元の世界を復元しなくてはならず、そこには網膜像からまとまりを持った対象を統合(知覚の体制化)し、大きさ・色・形といった特性を再構成(知覚の恒常性)し、欠けている部分を補い(知覚的補完)と言った過程が存在するのではなくてはならず、そうでなくては環境に適応することはできないであろう。  

 同一の遠刺激から多様な近刺激を生ずることも、異なる遠刺激から同一の近刺激を得ることもあり得る。初めて見る風景と見慣れた風景では見え方が異なるように、たとい同一の風景でも、近刺激は違ってくる。  

 哲学的に考えると、そもそも「近刺激」とか「遠刺激」と言う概念は、廣松が批判する「カメラモデルの世界観」の立場に立つものである。廣松は、「近刺激」も「遠刺激」も否定する。彼の主張は、関係主義的世界観で、何かが見えるのは、そこに何かがあるからではなくして、「それと関係」しているからだという。彼のたとえを引用すれば、一塁ベースと二塁ベースの間を打球が抜けていくのを見ている人は、打球が抜けていくのを網膜にではなく、そこに見る。さらに廣松は言う、「何らかの神経的変化はあるだろうが、それが見え方を決めているわけではない」と。  

 しかし、最近の脳神経的研究の成果によれば、脳の血流を感知するセンサーで、ものの見え方が可視化できるようになってきている。これが廣松の言う「何らかの変化」だとしても、「カメラモデルの世界観」からの接近法だと言うことを考え合わせると、事情は単純なものではないことが分かる。  

 もうひとり、廣松のような考え方をする哲学者に、G・ライルがいる。ライルはその著「心の概念」の中で「機械の中の幽霊のドグマ」と言う「心が体に宿る」と言う考え方を痛烈に批判している。  

 いずれの考え方が実り多いかという観点からして、原理と実用の狭間で議論を戦わせてゆくことは、今後ますます重要になってくると考えられる。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 9 グローバル優先仮説

 年末になると、クリスマスのイルミネーションでビルの窓をモミの木のようにライトアップしたりする光景が散見されるが、美しいものである。このように、窓の点灯消灯によって浮かび上がるモミの木などの図や字は、要素となる窓よりも遙かに大きいことから「グローバル文字列」と呼ばれる。   

 1977年、ナヴォンは文字複合文字列、つまりたとえば小さなSを沢山配して大きなHをなす文字列を使って画期的な実験をした。例えば、小さなS・H・Oのいずれかで作られた複合文字列S・H・Oを瞬間的に被験者に呈示して、大きな文字列あるいは小さな文字をできるだけ速く答えるよう求め、結果を検討した。その結果、2つのことが分かった。  

 ひとつは、大きな文字を答えるように求めた条件の方が小さな文字を答えるよう求めた条件より一貫して大きな文字を答えるよう求めた条件の方が答えるのが速かった、という事実で、ふたつめは、小さな文字と大きな文字が違った文字の条件の場合、小さな文字を答えるよう求めた条件で明らかに答える早さが遅かったという事実である。ナヴォンはこれを大きな文字の小さな文字への干渉と見なした。  

 これらの事実から、刺激文字列は、まずグローバルな形態が先に把握され、それから小さな文字の認識が続くという「グローバル優先仮説」をナヴォンは提唱した。  

 折も折、この頃には視覚には2つのチャネルがあることが明らかになっていた。「一過性チャネル」と「持続性チャネル」の2つである。「一過性チャネル」は低い空間周波数によく応答し、反応スピードが速く、周辺領域の刺激にもよく反応する。これに対し「持続性チャネル」は高い空間周波数の刺激に反応し、反応スピードは遅く、中心領域の刺激にしか反応しない。  

 そのようなことが分かっていたため、低い空間周波数を持つ大きな文字には「一過性チャネル」が働いて反応スピードが速く、高い空間周波数を持つ小さな文字には反応が遅れるのだと解された。  

 ただし、この指摘には注意が必要である。冒頭のビルのクリスマスツリーのように相当離れないと認識できない複合文字列もある訳で、視角内の「ほどよい大きさ」が重要だと言う点である。  

 以上、「文字定位」の問題を「文字の大きさ」という視点から振り返ってみた。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 8 文字定位

 「知覚」にはプレグナンツの法則が働くことは既に述べたが、文字のような複雑な記号をこれですべて説明できる訳ではない。ではどのようにして文字認識が成立しているのだろうか。  

 ここでは「特徴分析モデル」の代表格の「パンデモニアムモデル」と「分析総合モデル」の代表格である「記号対比モデル」について紹介する。  

 O.G.セルフリッジが1959年にコンピューターの大文字判定のために考案した理論である「パンデモニアム(伏魔殿)モデル」では、我々の心の中に4層のデーモン、すなわちイメージ・デーモン、特徴認識デーモン、認知デーモン、判定デーモンが働いていると仮定する。  

 まず、眼球から伝わってくるイメージをイメージ・デーモンが記録する。次に特徴認識デーモンがイメージの特徴、たとえば「A」と言う文字ならばてっぺんで合わさる2本の斜線と中央よりやや下寄りの横線1本からなる文字であると分析する。これを受け取った認知デーモンはどのような特徴が優勢かについて複数の叫び声を上げる。最も文字に近い叫び声が最も大きな叫び声を上げる。最後に、判定デーモンが最も叫び声の大きかったイメージ・デーモンをある文字として判定する。  

 この理論の問題点は、個人の個性を説明できないこと、果たして日本語のような文字数が膨大な文字の体系を逐一判定できるほどの範型を人間の頭は覚えていられるのかと言った疑問、それから次に説明する「文脈効果」を説明できないことなどである。    

 次の文字列を見て欲しい。  

 OBLIGATION   

 O37I962IO4  

 この文字列には「O」と「I」という記号が混じっているが、我々はこれを見たとき、「オブリゲーション」、「0371962104」と恐らく認識することであろう。つまり、前者では同じ刺激をアルファベットとして、後者では数字と認識するのである。このように同じ記号が前後の記号の配列で違った記号として認識される現象を「文脈効果」と言う。  

 これを説明するために考えられた理論を「記号対比モデル」と呼ぶ。我々はまず個々の文字を識別する。そして前後から最適解を導き出しているというのが、その要旨である。  

 いずれが正しいか、あるいはもっと適切なモデルがあるかの判断は、読者に委ねたい。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 7 知覚-運動協応

 我々の目には、環境像が光学的に上下左右反転して光が届いている。なのにどうして我々はそうは世界を見ないのであろうか。  

 これには、学習が絡んでいる。19世紀末、ストラットンは「反転眼鏡」の着用実験を行った。「反転眼鏡」とは、上下左右が逆さまに見える眼鏡のことである(このような眼鏡のことを「視野変換鏡」という)。  

 この眼鏡で逆転した世界を見ながら生活すると、はじめの数日は極度の困難に陥り、体が分裂したかのような違和感を覚え、車酔いに似た症状を示すが、1週間もすると何の困難もなく行動できるようになることが分かった。このような学習を「知覚-運動協応」の学習という。  

 このことは、視野をずらした眼鏡や、90°の角度差がある眼鏡でも言えることが分かった。  

 これらのことが意味することは、網膜像にいかに外界を変換して映らせようとも、我々はそれに適応できる、と言うことである。ちなみに視野変換眼鏡を外したときには数時間から1日程度で元の環境に適応できるようになる。  

 冒頭の疑問は、かくして解決が与えられる。  

 これと似た課題として心理学でよく使われる装置に「鏡映描写」器がある。鏡に映った線分のみを見て、それをペンでなぞる課題である。  

 被験者ははじめ数時間から数十分かけて図形を辿り終えるが、試行を繰り返しているうちに、鏡がない条件と変わらぬまでに辿る時間が短くなる。この場合は鏡を見ない条件のパフォーマンスが落ちる現象は見られない。  

 さらに興味深いことは、右手で鏡映描写に慣れたところで、左手で同じ課題をやってもらってみても、学習の効果が見られることである。学習心理学では先発の学習が後続の学習に影響を与えるとき、「学習が転移した」という。促進的な場合が「正の転移(又は単に転移)」、妨害的な場合が「負の転移」である。この場合右手と左手の学習に転移が見られる訳で、これを「両側性転移」という。  

 このように、我々の知覚という心の表面的段階ですでに学習のメカニズムが働いていると言うことは、この現象が知覚の定義、すなわち「感覚器から脳内の過程までを含む」と言うくだりがどう言う意味を持っているのかを明らかにする上でも考えさせられる事例だと言って良いであろう。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 6 音源定位

 他人から話しかけられたとき、我々はすぐさま話しかけられた方向を特定できる。  

 このように、聴空間で耳に到達する音の発生源・方向を定位することを音源定位という。音源には音階上に位置づけられるハーモニーや純音である「楽音」と、不規則な音である「雑音」があるが、いずれも音高(ピッチ)を持つ点では共通である。  

 ここでは話を「楽音」に絞って進める。  モノラルのヘッドホンでひとつの音を聴くと、音像は頭の中央にあるように感じられる。左耳右耳の音の大きさを変えると、より強い音を聴かされた耳の方側に音像は偏る。  

 同様に、同じ音の強さだが右耳左耳で音の到達時間差を作ると、より速く音の到達した方の耳側に音像は偏る。  

 ここで問題である。  

 同じ音を右耳に速く弱く呈示し、左耳に遅く強く呈示すると、どのように聴こえるであろうか。  答えは「音はまた頭の中央に聴こえる」である。この現象を「時間と強度の交換作用(time-intensity trading)」と呼ぶ。  

 このことから推し量るに、正中面(頭を縦に分割する面)にある音源は定位できないように思われるかも知れない。  

 しかし、日常我々はそれで困ることはほとんどない。なぜであろうか。  

 これには「スペクトル分析」を我々の耳がしているのではないか、と言う説が有力視されている。「スペクトル分析」とは、我々の耳介の反射・回折・遮蔽によって真正面・真後ろ・真ん前・真後ろから来る音の微妙な聴こえ方の変化を我々の脳が分析しているのではないか、と言う考え方である。また、豊富な聴経験がかかわっているのかも知れない。この仮説なら、乳幼児を使って実験的に検証できる。  

 このため、我々の音源定位は、人工的に操作された聴空間でない限り、極めて正確になされる仕組みとなっている。  

 最後に「カクテルパーティー効果」に触れておく。やかましい中でも自分の名前が呼ばれたのを聞き取ることができるとか、親しい友人と会話できるなどの現象を「カクテルパーティー効果」と言う。神経生理的には上オリーブ複合体と蝸牛の間にはオリーブ蝸牛束があって、それがこの効果を可能にしている、という議論もある。