講座 心理学概論 6 知覚心理学 11 主観的輪郭

 図と地を分けるものは「輪郭(contour)」と呼ばれる。目は二次元の網膜像に集約されるが、そこから三次元の環境像を推定することは重要な問題である。灰色の背景の中をまだら灰色の猫が走るのを想像してほしい。背景の灰色と猫の灰色は区別がつかない。そのため、そこに猫がいると気づくのは一大作業である。実際、猿・猫・フクロウ・ミツバチは欠けている環境情報を補完する機能を持っていることが心理学的に証明されている。  

 しかし、現実にはどうであろうか。認知心理学によれば、高次の推定によってそこに猫がいると判断できるとされた。実際、まとまりのある動物が動けば、我々は容易に、つまり一大作業を伴わずに、「そこに何かいる」と判断できる。これは「高次の推定」の一例である。しかし、問題が残る。ミツバチが「高次の推定」すなわち輪郭をその小さな脳内で計算できるのかという疑問である。  

 皆さんはご存じないかも知れないが、黒い60°の切り欠きを持った円が切り欠きを内側に向けてやや離れて3つ配置された場合、そこにないはずの三角形が「見える」。あるいは2つの格子模様が隣接して配置されていると、滑らかな曲線が中央に「見える」。これらの現象のことを「主観的輪郭」という。  

 それは恣意的なものではなく、普遍的な現象だと言うことは、種に共通の認知が起こることから明らかである。ゲシュタルト心理学において、プレグナンツの法則、つまり「良い形」に認識が体制化するように人間の頭が働くことは先述した。果たして、上述の例がそれに当たるのであろうか。答えは明らかである。三角形が「そこにある」と感じること、滑らかな境目が「そこにある」と感じることは、プレグナンツの法則の必然的帰結である。  

 お気づきの方もいるかとは思うが、この現象は進化心理学にも通じるものを持っている。種の保存と言う観点から見れば、外敵をどれだけ速く発見できるかは、対処行動の水準を決定する上で重要な役割を持っている。対処行動の水準とは、「第一弾」「第二弾」などの打つ手の段階のことである。「第一弾」、すなわち最も速く敵を発見したときには、仲間に知らせる余裕を持つことができる。  

 主観的輪郭とは、知覚的生態学的な最適解である。それは網膜の段階に始まって、大脳連合野の段階まで連続的に継承される。細胞レベルで見ると、主観的輪郭、すなわちないはずのエッジ(色の急勾配)に応答する細胞は多い。  

 いずれにせよ、攻める上でも守る上でも重要なのが主観的輪郭である。  

 なお、聴覚においては、倍音認知(ミッシング・ファンダメンタル)でそれが言えることを申し添えておく。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 10 近刺激と遠刺激

 「鳩山さん」と誰かが呼んでいるのを、「里山さぁ」と聞き違えるようなミステイクは誰もが日常的に経験するところであろう。このときの他人の呼びかけのことを「遠刺激」、本人の鼓膜の振動のことを「近刺激」という(視覚ならば見られる物体のことを遠刺激、その網膜像のことを近刺激という)。  

 これらの関係は一意には決まらない。状況や位置によって変化する。たとえば錯視図形を見るとき、それ以前に何を見ていたかによって、見え方が変わってくる。  

 特に視覚においては、2次元の網膜像から3次元の世界を復元しなくてはならず、そこには網膜像からまとまりを持った対象を統合(知覚の体制化)し、大きさ・色・形といった特性を再構成(知覚の恒常性)し、欠けている部分を補い(知覚的補完)と言った過程が存在するのではなくてはならず、そうでなくては環境に適応することはできないであろう。  

 同一の遠刺激から多様な近刺激を生ずることも、異なる遠刺激から同一の近刺激を得ることもあり得る。初めて見る風景と見慣れた風景では見え方が異なるように、たとい同一の風景でも、近刺激は違ってくる。  

 哲学的に考えると、そもそも「近刺激」とか「遠刺激」と言う概念は、廣松が批判する「カメラモデルの世界観」の立場に立つものである。廣松は、「近刺激」も「遠刺激」も否定する。彼の主張は、関係主義的世界観で、何かが見えるのは、そこに何かがあるからではなくして、「それと関係」しているからだという。彼のたとえを引用すれば、一塁ベースと二塁ベースの間を打球が抜けていくのを見ている人は、打球が抜けていくのを網膜にではなく、そこに見る。さらに廣松は言う、「何らかの神経的変化はあるだろうが、それが見え方を決めているわけではない」と。  

 しかし、最近の脳神経的研究の成果によれば、脳の血流を感知するセンサーで、ものの見え方が可視化できるようになってきている。これが廣松の言う「何らかの変化」だとしても、「カメラモデルの世界観」からの接近法だと言うことを考え合わせると、事情は単純なものではないことが分かる。  

 もうひとり、廣松のような考え方をする哲学者に、G・ライルがいる。ライルはその著「心の概念」の中で「機械の中の幽霊のドグマ」と言う「心が体に宿る」と言う考え方を痛烈に批判している。  

 いずれの考え方が実り多いかという観点からして、原理と実用の狭間で議論を戦わせてゆくことは、今後ますます重要になってくると考えられる。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 9 グローバル優先仮説

 年末になると、クリスマスのイルミネーションでビルの窓をモミの木のようにライトアップしたりする光景が散見されるが、美しいものである。このように、窓の点灯消灯によって浮かび上がるモミの木などの図や字は、要素となる窓よりも遙かに大きいことから「グローバル文字列」と呼ばれる。   

 1977年、ナヴォンは文字複合文字列、つまりたとえば小さなSを沢山配して大きなHをなす文字列を使って画期的な実験をした。例えば、小さなS・H・Oのいずれかで作られた複合文字列S・H・Oを瞬間的に被験者に呈示して、大きな文字列あるいは小さな文字をできるだけ速く答えるよう求め、結果を検討した。その結果、2つのことが分かった。  

 ひとつは、大きな文字を答えるように求めた条件の方が小さな文字を答えるよう求めた条件より一貫して大きな文字を答えるよう求めた条件の方が答えるのが速かった、という事実で、ふたつめは、小さな文字と大きな文字が違った文字の条件の場合、小さな文字を答えるよう求めた条件で明らかに答える早さが遅かったという事実である。ナヴォンはこれを大きな文字の小さな文字への干渉と見なした。  

 これらの事実から、刺激文字列は、まずグローバルな形態が先に把握され、それから小さな文字の認識が続くという「グローバル優先仮説」をナヴォンは提唱した。  

 折も折、この頃には視覚には2つのチャネルがあることが明らかになっていた。「一過性チャネル」と「持続性チャネル」の2つである。「一過性チャネル」は低い空間周波数によく応答し、反応スピードが速く、周辺領域の刺激にもよく反応する。これに対し「持続性チャネル」は高い空間周波数の刺激に反応し、反応スピードは遅く、中心領域の刺激にしか反応しない。  

 そのようなことが分かっていたため、低い空間周波数を持つ大きな文字には「一過性チャネル」が働いて反応スピードが速く、高い空間周波数を持つ小さな文字には反応が遅れるのだと解された。  

 ただし、この指摘には注意が必要である。冒頭のビルのクリスマスツリーのように相当離れないと認識できない複合文字列もある訳で、視角内の「ほどよい大きさ」が重要だと言う点である。  

 以上、「文字定位」の問題を「文字の大きさ」という視点から振り返ってみた。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 8 文字定位

 「知覚」にはプレグナンツの法則が働くことは既に述べたが、文字のような複雑な記号をこれですべて説明できる訳ではない。ではどのようにして文字認識が成立しているのだろうか。  

 ここでは「特徴分析モデル」の代表格の「パンデモニアムモデル」と「分析総合モデル」の代表格である「記号対比モデル」について紹介する。  

 O.G.セルフリッジが1959年にコンピューターの大文字判定のために考案した理論である「パンデモニアム(伏魔殿)モデル」では、我々の心の中に4層のデーモン、すなわちイメージ・デーモン、特徴認識デーモン、認知デーモン、判定デーモンが働いていると仮定する。  

 まず、眼球から伝わってくるイメージをイメージ・デーモンが記録する。次に特徴認識デーモンがイメージの特徴、たとえば「A」と言う文字ならばてっぺんで合わさる2本の斜線と中央よりやや下寄りの横線1本からなる文字であると分析する。これを受け取った認知デーモンはどのような特徴が優勢かについて複数の叫び声を上げる。最も文字に近い叫び声が最も大きな叫び声を上げる。最後に、判定デーモンが最も叫び声の大きかったイメージ・デーモンをある文字として判定する。  

 この理論の問題点は、個人の個性を説明できないこと、果たして日本語のような文字数が膨大な文字の体系を逐一判定できるほどの範型を人間の頭は覚えていられるのかと言った疑問、それから次に説明する「文脈効果」を説明できないことなどである。    

 次の文字列を見て欲しい。  

 OBLIGATION   

 O37I962IO4  

 この文字列には「O」と「I」という記号が混じっているが、我々はこれを見たとき、「オブリゲーション」、「0371962104」と恐らく認識することであろう。つまり、前者では同じ刺激をアルファベットとして、後者では数字と認識するのである。このように同じ記号が前後の記号の配列で違った記号として認識される現象を「文脈効果」と言う。  

 これを説明するために考えられた理論を「記号対比モデル」と呼ぶ。我々はまず個々の文字を識別する。そして前後から最適解を導き出しているというのが、その要旨である。  

 いずれが正しいか、あるいはもっと適切なモデルがあるかの判断は、読者に委ねたい。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 7 知覚-運動協応

 我々の目には、環境像が光学的に上下左右反転して光が届いている。なのにどうして我々はそうは世界を見ないのであろうか。  

 これには、学習が絡んでいる。19世紀末、ストラットンは「反転眼鏡」の着用実験を行った。「反転眼鏡」とは、上下左右が逆さまに見える眼鏡のことである(このような眼鏡のことを「視野変換鏡」という)。  

 この眼鏡で逆転した世界を見ながら生活すると、はじめの数日は極度の困難に陥り、体が分裂したかのような違和感を覚え、車酔いに似た症状を示すが、1週間もすると何の困難もなく行動できるようになることが分かった。このような学習を「知覚-運動協応」の学習という。  

 このことは、視野をずらした眼鏡や、90°の角度差がある眼鏡でも言えることが分かった。  

 これらのことが意味することは、網膜像にいかに外界を変換して映らせようとも、我々はそれに適応できる、と言うことである。ちなみに視野変換眼鏡を外したときには数時間から1日程度で元の環境に適応できるようになる。  

 冒頭の疑問は、かくして解決が与えられる。  

 これと似た課題として心理学でよく使われる装置に「鏡映描写」器がある。鏡に映った線分のみを見て、それをペンでなぞる課題である。  

 被験者ははじめ数時間から数十分かけて図形を辿り終えるが、試行を繰り返しているうちに、鏡がない条件と変わらぬまでに辿る時間が短くなる。この場合は鏡を見ない条件のパフォーマンスが落ちる現象は見られない。  

 さらに興味深いことは、右手で鏡映描写に慣れたところで、左手で同じ課題をやってもらってみても、学習の効果が見られることである。学習心理学では先発の学習が後続の学習に影響を与えるとき、「学習が転移した」という。促進的な場合が「正の転移(又は単に転移)」、妨害的な場合が「負の転移」である。この場合右手と左手の学習に転移が見られる訳で、これを「両側性転移」という。  

 このように、我々の知覚という心の表面的段階ですでに学習のメカニズムが働いていると言うことは、この現象が知覚の定義、すなわち「感覚器から脳内の過程までを含む」と言うくだりがどう言う意味を持っているのかを明らかにする上でも考えさせられる事例だと言って良いであろう。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 6 音源定位

 他人から話しかけられたとき、我々はすぐさま話しかけられた方向を特定できる。  

 このように、聴空間で耳に到達する音の発生源・方向を定位することを音源定位という。音源には音階上に位置づけられるハーモニーや純音である「楽音」と、不規則な音である「雑音」があるが、いずれも音高(ピッチ)を持つ点では共通である。  

 ここでは話を「楽音」に絞って進める。  モノラルのヘッドホンでひとつの音を聴くと、音像は頭の中央にあるように感じられる。左耳右耳の音の大きさを変えると、より強い音を聴かされた耳の方側に音像は偏る。  

 同様に、同じ音の強さだが右耳左耳で音の到達時間差を作ると、より速く音の到達した方の耳側に音像は偏る。  

 ここで問題である。  

 同じ音を右耳に速く弱く呈示し、左耳に遅く強く呈示すると、どのように聴こえるであろうか。  答えは「音はまた頭の中央に聴こえる」である。この現象を「時間と強度の交換作用(time-intensity trading)」と呼ぶ。  

 このことから推し量るに、正中面(頭を縦に分割する面)にある音源は定位できないように思われるかも知れない。  

 しかし、日常我々はそれで困ることはほとんどない。なぜであろうか。  

 これには「スペクトル分析」を我々の耳がしているのではないか、と言う説が有力視されている。「スペクトル分析」とは、我々の耳介の反射・回折・遮蔽によって真正面・真後ろ・真ん前・真後ろから来る音の微妙な聴こえ方の変化を我々の脳が分析しているのではないか、と言う考え方である。また、豊富な聴経験がかかわっているのかも知れない。この仮説なら、乳幼児を使って実験的に検証できる。  

 このため、我々の音源定位は、人工的に操作された聴空間でない限り、極めて正確になされる仕組みとなっている。  

 最後に「カクテルパーティー効果」に触れておく。やかましい中でも自分の名前が呼ばれたのを聞き取ることができるとか、親しい友人と会話できるなどの現象を「カクテルパーティー効果」と言う。神経生理的には上オリーブ複合体と蝸牛の間にはオリーブ蝸牛束があって、それがこの効果を可能にしている、という議論もある。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 5 視覚キャプチャー

 テレビで音楽番組を観ているとき、テレビのスピーカーからではなく、映像中の楽器から音かしているように感じた経験は誰でも持っているであろう。  

 映画館で映画を観ているとき、映画館のスピーカーからではなく、映画の登場人物の口から声が聞こえるのを体験した方も多いはずである。  

 これと同じことが腹話術にも言える。今人気の「いっこく堂」さんの腹話術を観ていると、彼の声帯や腹膜からではなく、人形の口から声が聞こえるように感じられる。  

 このような「誤った」音源定位は、映画や腹話術をより楽しいものに感じさせてくれる。このような音源定位上の効果のことを「腹話術効果」と呼ぶ。  

 これと似た現象に「マガーク効果」がある。英米の大人に顕著に見られる効果で、その概要は以下の通りである。  

 映像中で/ga/と言っているように見える人物の映像に、/ba/と言う音声を聞かせる。すると英米の大人は、/da/と聞き取るという効果が「マガーク効果」である。特にアメリカで研究が盛んなトピックではあるが、未だ原因の解明には至っていない。  

 このように、多くの知覚において、視覚が主軸となって感覚が統合されることを「視覚キャプチャー」と言う。喫煙者の方にしか分からないであろうが、暗闇でタバコを吸ったときに煙が見えないと「吸った感じがしない」のはこの典型例と言える。  

 しかし必ずしも感覚の統合が視覚優位に行われる訳ではないことも指摘され始めている。  

 例えば微妙な時間的変化をする映像に合わせる音のタイミング次第で映像の見え方が変わる現象が報告されている。  

 この分野は、未だ謎だらけである。

  

講座 心理学概論 6 知覚心理学 4 幾何学的錯視



 「錯視」とは単なる見間違えとは違って、上図のような目を欺く図形のことを言う。「ミューラー・リヤー錯視」の図をご覧頂きたい。自然と上の矢の軸の方が下のそれよりも短く感じられる。これは、我々が同じ長さの線分であっても、それを「違う」と思わせるに十分な知覚的特質をそれらは備えているのである。「ミューラー・リヤー錯視」にかんして言うと、下の図形では軸が「出っ張って」見え、上の図では軸は「奥まって」見える。この錯視を説明する有名な仮説に「グレゴリーの仮説」がある。矢羽根がなす角度をコーナーとして見るからこの錯視が起こると言うものである。ならば奥行き知覚の生じない単眼視ではどうかを見てみればよい。筆者はたぶん、線分の起点・終点が明確でないことによりこの錯視が生ずると考える。  

 このように、錯視図形が我々に語りかけるものとは、「我々は常に知覚の恒常性を保とうとして環境を見ている」ことなのである。  

 読者の皆さんは、「では他の錯視図形をいかにして知覚の恒常性との関係で捉えるか」について、演習問題だと思って挑戦して欲しい。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 3 知覚の恒常性

 我々は、明るさや近さ、視点の位置などが異なっても、ある対象の色や大きさ、形が変わったとは認識しない。このことを「知覚の恒常性」と言う。  

 友人が遠くからこちらへ歩いてくるとき、我々の網膜上では友人の像が大きくなってくるが、我々は決して友人が「大きくなってきた」とは認識しない。  

 リンゴはさまざまな光源からの光を浴びて、視覚上の彩度が変化するにもかかわらず、「これはさっきあの光源の下で見たリンゴだ」と同定することができる。  

 机は、見る位置によって網膜上の形が変化するが、我々は「机の形が変わった」とは認識せず、自分の視点が変わっただけだと判断できる。  

 これらはすべて、「知覚の恒常性」を示す現象である。  

 先に、「無意識的な知覚的推論」と言う言葉を使ったかと思うが、これらもすべてそれに該当する。  

 なぜこのような現象が見られるのか。  

 それは、「環境適応」と深く関わっている。もし、「友人が歩いてくる→近づいてきているだけだ」とみなさずに「友人が歩いてくる→友人がだんだん大きくなってきた」と解釈するとしたならば、建物と友人の関係は一貫性を欠いたものになってしまうであろう。  

 このように、「知覚の恒常性」は、私と世界を合理的に関係づける役割を果たしているのである。世界の持つ合理性を私において実現するメカニズムが、「知覚の恒常性」なのである。  

 ここで、これと紛らわしい概念である「恒常仮説」と言う用語について注釈しておく。  

 物理学的刺激のいちいちが心理学的な知覚のいちいちに対応する、つまり、例えば音楽における一音一音が心理学的刺激として一音一音ずつ特有の効果を持っているという仮説のことを「恒常仮説」という。ここで触れている「知覚の恒常性」とは何の関係もない仮説で、ゲシュタルト心理学者がその反証に最も力を注いだ仮説のことである。  

 さて、「知覚の恒常性」については一応の理解が得られたものと思う。次節では「知覚の恒常性」が働く故に生じる逆説的現象である「錯視」を紹介するつもりである。  

 「錯視」とは、刺激の物理的特性と心理的特性にずれが生じる現象のことである。まだまだ解明し尽くされた錯視というものは存在しないと言われるほど心理学研究が歴史的にも長く行われている現象である。近年、錯視と「知覚の恒常性」の関係が注目され始めたことを受けて、上記のように問題提起した次第である。

講座 心理学概論 6 知覚心理学 2 プレグナンツの法則

 我々は、雑然とした部屋に探し物にはいるとき、容易に探し物を見つけることができる。  

 どうしてなのであろうか。  

 それは探し物が「目立つ」ためではないだろうか。「期待」は探し物を見つけるときに大きな役割を果たす。空気の中の塵ひとつを探すより、有名作家の小説を探す方が、より容易であろう。それは有名作家の小説の方が「単位」として認識しやすいためである。このような知覚的分節のことを「ゲシュタルト(パターンないし全体を意味するドイツ語)」という。19世紀初頭にヴェルトハイマー、コフカ、ケーラーなどによって前面に出てきたこの「ゲシュタルト」と言う概念は、一大心理学勢力となり、彼らは「ゲシュタルト心理学者」として認知されることとなった。  

 「部分の総和は全体と異なる」という彼らの主張は、一音一音とメロディーの関係を例に出すまでもなく、我々の環境認識にかんする考え方に一大センセーションを巻き起こした。  

 その中でも今節では「プレグナンツ(簡潔性)の法則」を紹介する。  

 ものがまとまって見える現象を「群化」と呼ぶが、その中で特に重要なのが「近接」「類同」「連続」である。  近接から説明する。       

 「・・・・・・・・」はただの「・」の連続に過ぎないが、「・・ ・・ ・・ ・・」としたらどうであろうか。「・・」がひとまとまりに見えるであろう。  類同とは、×を多数並べて「X」という文字を作りそのまわりをびっしりと「+」で埋めても、「X」とハッキリ判読できることである。  連続とは、「T」のように縦線と横線がある場合に縦線・横線がそれぞれに独立して認識できるように、「連続した刺激はまとまりやすい」ことである。  

 この他にも「閉合」とか「良い形の要因」とかあるが、ここでは割愛する。  

 これらの要因が我々に認識世界の安定性を与えているのは確かであろう。このように我々の知覚は単なる感覚の寄せ集めではなく、「知覚的推論」という脳の過程によって処理された情報構築作業を無意識のうちに行っているのである。これは盲人が開眼手術を受けた直後でも示される事象であるため、先天的に備わった能力であることが証明されている。

 ただし、これだけで知覚のすべてを説明できる訳ではない。情報として目立つ部分のことを「図」、背景になる部分のことを「地」と呼ぶことは先述したが、「図」が何であるかを規定する要因は他にもあり、これについては後述することとしよう。

 筆者なりに「プレグナンツの法則」を翻訳的に理解すると、それは「人間の知覚は情報量を節約(小さく)するようにできている」と言った感じであろうか。それはあまねき人間の知覚に言えようかと思う。