世界事象が弁証法的だと言える根拠はない。
ただ我々は何らかの違和感を持ち、オーダーとアプローチの「致識」に至るだけである。それが「正−反−合」と言う形を取るのはむしろレアケースである。
勘と言うことがある。試行錯誤と言うこともある。一回で解ける謎もあれば、何度も誤って最後まで謎が残ることもある。
つまり、ただ謎のない問題はないと言えるだけである。
生の始まりは菌類による代謝であるが、我々はこれを精神性抜きに認識することはできない。
それはこう言うことである。生命の最も原始的な姿でさえ、それは「物質の疼き」、つまり適応的なものだとしか説明することはできない。単なる物質間関係にあっては、「変化」と言う現象は観察できても、「適応」と言う現象は観察されない。もし我々が「適応する物質」を作れたとしても、我々はそれを「生命の模倣」くらいにしか思わないだろう。
それが転じて我々の生(レーベン)に至ったわけであって、我々は自然、もっと言うと森羅万象は精神的にしか解明しえない。
いな、生命にとっての自然、つまり森羅万象は須く精神的なのである。物の世界は即物的に認識できても、世界を精神性抜きに語ることは、我々の生活をただ虚ろなものに堕落させるだけである。なぜなら、我々の生活はたとい物であっても、精神との関係において初めて意味を持ち、そして役立つからである。
この点を唯物論は一顧だにしていない。そのわけは、マルクス主義においては産業しか念頭に置いておらず、生産(産業)関係においてしか人間を見ていないからである。そこには詩(うた)もなければ趣味も遊びも僕のような原始人の存在する余地でさえもない。
エコロジー(生態学)とコミュニティ(共同体)が鋭く問われる現代に弁証法的唯物論を説くことは、完全にピント外れな認識だと言わざるを得ない。