従来の学習心理学では学習の規定因を「強化と罰」だとし、レスコーラ=ワグナーモデルでは「意外性」、マッキントッシュ説では「情報価」だとされてきました。
しかし、特に人間の学習で学習に対して大きな影響力を行使しているのは、 「意外性」でも「情報価」でもなく、「その気づきに意義を感じられるか」 の問題だと思います。言い換えれば、「欲求があっての理解かどうか」の問題だと思います。
実験動物の挙動と我々人間の挙動を混同すべきではなく、人間の学習にとって重要なのは繰り返しますが「その気づきに意義を感じられるか」すなわち「欲求があっての理解かどうか」であり、 そのようなわけで「考えさせる授業」や「教え合い」ほど学習として定着しやすいのだと考えます。
なのでこう言う逆説が成り立つのではないでしょうか。学校での成績優良児は、「頭が良い子」なのではなくて、「学校の授業に意義を感じやすい子」ではあるまいか、言い換えれば子どもの教科教育への評価(教師の教育への子どもの評価)ではあるまいか、と。
無論、各人にそれを学ぶかどうかの選択権も必要です。あるひとにとって「取るに足らない」と思われる内容は学ばなくても良く、「これは大事だ」と思ったことは学べる体制が重要だと思います。
なので、江戸時代のことを徳川家の末裔に話した方が余所家の末裔に話す方より学習の進捗は早いだろう、と考えられるわけです。
