記憶の意識説

 コリンズとロフタスの「活性化拡散モデル(講座 心理学概論参照)」はあっけに取られるほど誰でも考えられそうなありきたりの理論だったので、僕はがっかりしました。

 彼らの発想の大元には、「体験的・概念的近似性」が仮定されていますが、さて、我々の日常の会話などを思い出したとき、どうでしょうか。

 我々の会話においては、たとえば見聞や出来事の陳述だったり感想だったり「このひとにはこれを話そう」だったりしますね。それをたぐっていくと、少なくとも「体験的・概念的近似性」だけではないことが明らかです。

 「今朝ちゃんと歯磨いた?」「忘れて寝ていた」、このひとつの会話だけでもその反証には十分です。

 さらに、我々の日常会話では「なぜそう思うの?」と問われることはよくあり、このようなとき我々の頭が思い浮かべるのは「理由」や「根拠」や「例」だったりします。

 では、我々はなぜあることを記憶しているのでしょうか。言い換えると、我々はなぜあることが「気にかかる」のでしょうか。

 僕の考えはこうです。「分かることは分かるので気持ち的に即時にTPO的に趣旨が意識され、分からないことは分からないので気持ち的TPO的な圏界面ができて意識する」。

 こうなるともはや「記憶」だけのお話ではなくて、我々の「意識」の問題なってくることがお分かりいただけると思います。我々の実生活において、ひとり「記憶」だけがものを言う場面と言うのはそうそうめったやたらにないのが現実でしょう。

 意識は「気にかかる」だけではなくて、ものごとを造作すると言う側面もあるでしょう。これについては「新たな成り立ちへの気づき」がその本質だと言えるでしょう。

 こうなってくると、認知心理学の「トップダウン処理」や「ボトムアップ処理」だけでは済まないお話になってくることがお分かりでしょう。

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