ひとの顔立ちは両親のいずれかに似る傾向がある。これは読者諸氏皆さんが感じている常識だろう。
では、ひとの「心」ではどうであろうか?皆さんは少し戸惑われるのではないだろうか。
昔はロックの「精神白紙(タブラ・ラサ)説」に見るような「環境説」、ゴルトンの天才研究に見るような「遺伝説」の2つの説が華々しく取り上げられ、「遺伝か環境か(Nature or Nurture)」論争と言う非常に分かりやすい論争が繰り広げられていた。「環境説」を根城にしたのは行動主義の創始者ワトソンであり、「遺伝説」をそれとしたのは有名な発達心理学者のゲゼルであった。取り敢えず、この2人の象徴的知見を見てみよう。
ワトソンは、わずか11ヶ月のアルバートという乳児にウサギと触れ合っているときに決まって金属の衝撃音を聞かせ続けたところ、ウサギを見ただけで泣き出すようになった。このことから、人間の心は環境によって決定されると主張し、「私に1ダースの子どもを預けてくれたら、何者にでもしてみせる」と豪語した。しかし現実には彼の息子の1人は犯罪者になってしまった。
ゲゼルは、一卵性双生児の子どもの一方に階段上りを教え、もう一方には教えなかった。しかし、階段上りを教えなかった子も、教え始めた時期を相当遅らせたにもかかわらずすぐに階段上りができるようになった。このことから彼は、持って生まれた遺伝的傾向が時間とともに発現していくと言う「成熟優位説」と言う「遺伝説」を唱えた。
「遺伝説」には、もうひとつ、「行動生態学」の創始者の一人であるローレンツがハイイロガンのヒナに見出した「学習の臨界期(それを過ぎると学習が不可能になる時期)」と言う考え方の系譜があり、レネバーグと言う心理学者による人間の言語獲得の臨界期は10歳~12歳だと言う指摘がある。
ところが、大きく分けて2つの意味で事はそう単純ではないことが分かってきた。
1つ目の意味は「遺伝」も「環境」も、それ単独では大した影響力がないと言うことであり、2つめの意味は「ひとの特性によって遺伝と環境の影響力は異なる」と言うことである。
1つ目の意味から説明しよう。ボーマンによる犯罪心理学的研究では、里親に出された子どもの犯罪率について、「実の親、里親どちらにも犯罪歴がある」、「両者とも犯罪歴がない」、「実の親のみに犯罪歴がある」、「里親のみに犯罪歴がある」と言う4群について調べた結果、後ろ3者の犯罪率に大差はないが、「実の親と里親どちらにも犯罪歴がある」群のみ高い犯罪率を示した。サメロフとチャンドラーは「相乗的相互作用説」と言う「遺伝と環境の相互作用から性格は形成される」と言う理論を提出している。
2つ目の意味であるが、要するに「年齢・人格特質によって遺伝の寄与率は違う」と言う知見が最近ではよく見られる。まず認知能力における年齢の役割であるが、学童期には30パーセント程度の遺伝の寄与率しかないが、中年以降になると70パーセントに跳ね上がるという知見がある。また、プロミンと言う心理学者が始めた「行動遺伝学」と言う心理学の新分野では、性格の遺伝寄与率は30~50パーセントくらいであることが明らかにされている。
また、性格の安定には遺伝の要因が大きく、変化については環境の要因が強いことも分かってきた。こうしたことを踏まえてクローニンジャーは、人格を「気質」と「性格」に分けて考える理論を展開している。
いずれにしても、確かに心理学的知見では「心」における一定の遺伝の影響は認められるものの、「現代」と言う土俵自体が歪んでいるかも知れないところで相撲を取っても意味がないように、我々は「知能」なり「性格」なりと言うアーキファクトに振り回されることなく人間により可能性のある見方を選ぶのが賢明であることは間違いのない考え方であることを指摘してこの節を締めくくることとする。