講座 心理学概論 8 感情心理学 13 感情表出

 我々人間は、他の多くの動物とは異なり、ことのほか東洋人では感じたままをそのまま顔に出すことをせず、社会的状況や他者の心情を考慮して気持ちを表出することが多い。このような「心情表出のコントロール」のことを「情動制御」と言う。感情そのものは視床下部や大脳辺縁系のような哺乳類では原始的な脳の部位において始発するが、人間は発達した大脳皮質において感情表出をコントロールするのである。ただし、発達心理学的にこのようなことができるようになるのは、概ね10歳以降のことであることが明らかにされている。  

 動物一般において情動あるいは感情が機能する条件として、特定の心理状態と特定の表出行動が安定しており、また種内で共有されていなければならないことが指摘できるだろう。人間では表情・動作・しぐさ・音声がそうでなければならないが、イヌやネコを見れば分かる通り、尻尾や耳が可動性のため、それらが重要な情動表出の役割を果たすし、動物よりも昆虫のレベルになれば、フェロモンやダンスがその役割を果たしていることは広く知られた事実であろう。  

 現在では、情動ないし感情の発生メカニズムは基本的に遺伝によると考えられている。特にこの事実はヒトよりも動物一般を見れば明確に理解できることだろう。そこで、エクマンやイザードなどは世界各地のあらゆる人種を対象に大規模研究を行い、ヒトの表情が普遍的であることを検証した。ただし、エクマン自身が示した「表示規則」では、表情の表出は文化が規定する面があることを認めているほかに、「社会構成主義」の立場をとる研究者などからは、もっと表情と言うものは文化規定的であると言う主張もある。我々が以前の節で学んだシャクターの「情動二要因論」なども考慮すると、そういう面の実証的研究は確かに遅れている感がある。  

 我々人間の感情表出と言うものは、喜びや悲しみ、怒りや恐れ、嫌悪や驚異だけにとどまらず、道徳的感情とか恥じらいとか嫉妬とか、動物の個体関係を制御するのに必要以上の複合的感情も多い。人間と言うものは動物以上に社会関係が重要な動物であることを顧みれば、この事実もまた納得のいくところであろう。  

 しかし、こうした人間の感情を多くの表情の研究者たちは還元的に「基本的感情」にまとめて捉え返そうとしている。たとえばパンクセップは4種類、エクマンやプルチックやトムキンスは8種類、イザードは10種類の「基本的感情」を提唱しており、大脳生理学的な裏付けが俟たれるところとなっている。すなわち、「どこからが大脳皮質の修飾による感情」で、「どこからが視床下部や大脳辺縁系の産み出す感情」かの問題である。

講座 心理学概論 8 感情心理学 12 感情の生理学的メカニズム

 今日では、さまざまな医学的アプローチによって、感情が扁桃体と前頭前皮質によって生み出され、その認識と表出には大脳右半球が主に関与することが分かっている。「感情を体験する」と言う文脈においては、右半球が「ネガティヴ感情」、すなわち不安や悲しみに強く関与しており、左半球が「ポジティヴ感情」、すなわち喜びや楽しみに強く関与している。もし、右半球に損傷のあるときには、ネガティヴ感情は抑制されて、ポジティヴ感情を持ちやすく、もし、左半球に損傷のあるときはポジティヴ感情が抑制されて、ネガティヴ感情を持ちやすいという医学的知見がある。  

 感情反応は、大脳皮質、扁桃体、海馬、視床下部などの中枢神経系と連絡のある自律神経系、特に交感神経系の活動と連動しており、瞳孔拡大、呼吸数上昇、心拍数と血圧の上昇、発汗、副腎皮質からのノルアドレナリン放出に見ることができる。これらの指標を用いて心理的動揺すなわち不安を犯罪捜査などのために調べる刑事的手法として有名なのが、いわゆる「ポリグラフ検査」である。この検査の対象者は、犯行事実とは関係のない「非裁決質問」の中に、犯行を行った者でしか知り得ない事実を盛り込んだ「裁決質問」を忍ばせて行うことによって、対象者がそれらの質問の反応間の差を検討することによって虚偽の供述をしているかどうかについて犯罪心理学の専門家に鑑別されるのである。  

 うつ病や強迫神経症の患者にはセロトニンの低下が見られ、これらの患者にはセロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)のフルオキセチンが投与され、セロトニンの血中濃度を一定以下に下げないようにすることによって症状を緩和させる。これらの患者に対しては、セロトニンの生成に必要なトリプトファンの含まれた食事指導も行われている。  

 特に恐怖の感情体験に強く関与しているのは扁桃体であることが分かっている。扁桃体に損傷を持つラットは恐怖条件付けが成立しないことが実験的に確かめられている。不安障害に対してよくベンゾジアゼピン系の薬剤が投与されるが、扁桃体に対して抑制的に働く「GABA(ガンマ-アミノ酪酸)」によってその活動が沈静化されるためである。  

 報酬、特にその予期にかかわっている神経刺激物質にドーパミンがある。条件付けとドーパミンの分泌量を見た研究では、何度も条件刺激が提示されるたびドーパミンの分泌量は増加するが、そのような条件では報酬に対するドーパミンの分泌量は増大しない。恋でも遊びでも結果よりも過程に対して幸福感が強いという経験的事実や、学習途中で終わった学習の方が最後までやり遂げた学習よりも良く覚えやすいと言う「ツァイガルニク効果」は、このような研究結果と一致している。なお、ドーパミンの分泌過剰が統合失調症をはじめとするさまざまな精神疾患と関係しているらしいと言う仮説もあるが、さらなる研究が望まれるところとなっている。

講座 心理学概論 8 感情心理学 11 感情的統制と葛藤

 我々の生活には様々なシーンがあり、自分が重要だと思っている領域での失敗は心理的な苦痛を生み、大して重視しない場面でのしくじりはあまり打撃に感じないであろう。また、自分の意思決定に当たって、同程度の魅力のある選択肢を示された場合には、心に迷いが生まれることであろう。  

 この「失敗と成功」における感情と、「迷い」にかんする感情状態について、この節では考察したい。  

 確かに、我々は自分が重視している分野で失敗すると立ち直れなくなったり、大して重視していない分野でも成功を収めるとその分野を重視するようになることもあるだろう。前者を「学習性無力感」、後者を「リフレーミング(リストラクション)」と呼ぶ。「学習性無力感」と言う現象自体は、セリグマンが不可避な電撃を受けたイヌが、電撃から回避可能にしても回避行動を取らなくなるような現象のことを言い、「リフレーミング」と言う用語は、ベックの認知療法と言う心理療法の中でクライエントが無意味に捉えている現象を有意味に捉えるようになる心理プロセスに与えた名前である。筆者の記事「ダナイード」などはその好例であろう。  

 人間、物事が自分の思い通りになることは快であり、そうならないことは不快なものである。例えば、自分に特定の政治信条があって、信条通りに政治が動けば「胸のすく」思いをするであろうし、そうならなければ、恨み言の一つも言いたくなるものである。最近のアブラムソンらの改訂学習性無力感理論では、例えば政治が自分の手によって動かされているかあるいは自分の手の届かないところで動いているかの認知、すなわち事象の「帰属」によって無力感が植え付けられるかそうでないかが決まる、と言うような理論が優勢になっている。これは言い換えれば、ロッターの「統制の座(ローカス・オブ・コントロール)」と言う考えを無力感理論に持ち込んだ結果である。また、対象自体を変えられる型の統制を「一時的統制」、対象に応じて対応を変えるような型の統制を「二次的統制」と呼び、老人の「知恵」は二次的統制と関係が深いことが分かっている。  

 次に、「迷い」についての心理学的理論で押さえておきたいのは、レヴィンの葛藤(コンフリクト)理論である。彼によると葛藤には「接近-接近」、「回避-回避」、「接近-回避」の3通りが考えられると言う。「接近-接近」葛藤は冒頭に言及したような、志望大学2校に合格したが同じように魅力的でどちらに進もうかと言うようなタイプの「迷い」であり、「回避-回避」葛藤はそれとは逆に英語も数学も勉強したくないが容赦なく試験が迫っているようなときに味わうタイプの「迷い」であり、最後に「接近-回避」葛藤は、学校に行くには近道な道があるが、その道の脇にはど迫力で吠えるイヌがいる家の前を通らなければならないようなときに味わうタイプの「迷い」である。このようなとき、ひとは一般的に行動経済学で呼ばれる「損失忌避」と言う「得ることの喜びよりも失うことの痛みの方が大きい」と言う一般的意思決定をする。しかし、ギャンブルなどの変動比率強化事態においては、学習心理学の章で触れた通り必ずしもそうとは限らず、それはギャンブル事態に置かれた人間が全体を見渡せていないことを物語るものであり、「遅々として浪費させる」ことには確かに損失忌避のメカニズムは働いていることを覚えておいていただきたい。

講座 心理学概論 8 感情心理学 10 自尊感情の心理学

 我々は、他人に蔑まれると悲しくなり、他人から評価されると嬉しくなるであろう。読者諸氏はそれがなぜなのかを考えたことがあるであろうか。  

 世間では、よく「自分を大切にしろ」と言う。しかし、同時に世間には、「スチューデント・アパシー」や「うつ」、はたまた「学習性無力感」などのように、自分に無価値感を深めてしまうようなこころの問題を抱える人々が実在するのもまた事実である。こうしたひとびとは、「精神病理」に陥ってしまったひとびとだと見なされるのが一般的である。  

 ではなぜ、自分に肯定的な感情を持っていることが「健康」と見なされ、そうでないひとは「不健康」と考えられるのであろうか。この問題の答えというのは、実はそれほど単純ではない。哲学的に自分に「無知の知」を認めるひとは、自分を肯定しているのであろうか、それとも否定しているのであろうか。捉え方次第だというのが答えになろうかと思うが、こうしたひとびとを一概に「健康」だとか「不健康」だとは断じがたいであろう。しかし、「無知の知」を自覚しているひとは、そう言う人間相応の振る舞いに努めるはずである。  

 これで少し見えてきたであろう。人間のこころが「健康」か「不健康」かは、自己認識の問題と言うより、自己認識を踏まえた適応的な行動の問題であることに依存することが。この適応的な行動が取れるためには、古くから多くの心理学者がこの適応的な行動の原動力として「自己効力感」、言い換えれば「自尊感情(self-esteem)」を仮定してきた。もし、ひとが本当に自分を「無力な人間」だと認識していたならば、その自己認識に適応的な行動を取る必要もないし、自分の行動に責任を持つ必要も感じられなくなり、社会的不適応者に転落してしまうであろう。もしそのような親の下に産まれたれてしまった人間がいるとすれば、さまざまな精神病理を抱えた人間に育ってしまうに違いない。たとい「無知の知」を自覚した人間であっても、分相応に行動するという点においては、自分の影響力については正確な「自尊感情」を持っているのである。  

 「自尊感情」には、大別して2種類のそれがある。ひとつは、「状態自尊感情」と言う状況や体験によって変わるそれであり、もうひとつは、「特性自尊感情」と言ってそのひとの安定した性格傾向としてのそれである。  

 しかし、一概に「自尊感情」と言っても、識者の間ではその捉え方には大きく言って3つの違ったアプローチがある。1つは、進化論的観点からのもの、1つは自由論との関係でのもの、そしてもう1つは社会関係の情報論的観点からのものである。以下に概説する。  

 1つ目に、人間は進化の過程で最も重要な「言語による意思疎通」の能力を獲得した。その社会は個々人のモチベーションが高いほど有効に機能する。ひとによって得意なことは異なり、それが分業制を人間社会に定着させ、ひとはそれぞれの得意分野で認められ、「自尊感情」が高いほど社会にとって有益な利益をもたらし続けてきた、と言う説である。  

 2つ目に、人間をはじめとするあらゆる動物は、生存にとっての障害を取り除き、自由を求める結果「自尊感情」が生ずるのだという説である。例えば現代の学歴社会は、競争に打ち勝ったものほど人生上の自由が大きくなる社会である。それは、そう言った人間の本性を利用して出来上がった社会だと言えるのかも知れない。  

 最後に、「自尊感情」と言うのはそれ自体のために存在するのではなくて、リアリーの「ソシオメータ理論」で唱えられているように、「自分は社会にどのぐらい受容されているか」にかんする情報をもたらす感情だ、と言う理論がある。この理論による説明では、社会的に受容されていると感じるひとほど自尊感情が高い、と言うことになる。  

 どの理論にも一定の説得力があるが、読者諸氏は最も納得のいく理論を選択するか、あるいは今までにはない斬新な発想で新理論を構築して提唱していただきたい。

講座 心理学概論 8 感情心理学 9 感情の諸理論

 心理学の世界では古くから感情というものを説明しようとする理論が存在し、現在はそれらがより洗練された形で生き続けている。  

 先述の通り、科学としての心理学の祖ウィルヘルム・ヴントは、「感情の3要素説」を提唱した。彼によると感情には以下の3つの要素があると言っている。すなわち、「興奮-鎮静」、「緊張-弛緩」、「快-不快」の3要素である。  

 同時代を生きたティチェナーは、どんな心理現象も物理学の原子論と同じで、それらを構成する異質な分子の構成こそが心の働きに他ならないと説き、たとえば「嫉妬」は「憎しみ」と「羨望」に分解できると言う。  

 そして現れたのが、前節までで紹介した「ジェームズ・ランゲ説」をはじめとする一連の感情理論であった。  

 そしてその後は、感情の分類をフィールドワークから試みる研究と、感情が起こるメカニズムにかんする理論に分かれていった。  

 前者から触れよう。

 感情の分類については、エクマンの分類が有名である。彼によると、感情には、怒り、恐れ、軽蔑、喜び、悲しみ、嫌悪、驚きなどがあると言う。そしてそれはある一定は文化普遍的だと主張している。多少の分類の相違はあるものの、イザードやプルチックもこうした分類を提唱している。なお、プルチックは「混合情動モデル」と言う現代版ティチェナー理論を提唱している。感情の文化普遍性については、文化が感情を決定づけるとするカシオッポの指摘が議論の的となっている。  

 そして後者である。  

 まず読者に覚えていただきたい理論に、ダマシオの「ソマティック・マーカー(身体信号)説」がある。この理論は、対象に接近したときに感じる「快-不快」の身体信号が対象への接近・回避を決定づけるという理論である。  

 あと簡単に有名な感情の起こるメカニズムに注目した研究と効果を2つずつだけ紹介しておきたい。  

 オートニーのOCC理論と言う理論では、最初に抱いた感情が核になって、感情の同定が階層的に行われるとする理論である。たとえば、ある異性に好意を抱いたとする。そして、その異性の言動から人間像を好意的にか嫌悪的にか持つに至り、さらに異性への感情はハッキリしてゆく。  

 もう一つの理論は、シェーラーの「要素処理説」である。彼は、情動が生起する条件には優先順位があると考えた。具体的には優先順位の高い順に、「新奇性と非予期性」、「快-不快」、「目標との関連性」、「対処可能性と因果関係の帰属」、「刺激状況の社会的規範と自己概念との比較」と言う感情の発生メカニズムがあると主張している。  

 最後に、感情にまつわる2つの効果について触れて結びとしたい。  

 個人の表情を認知する際に、怒りよりも喜びの方がその特定が速い現象を指して「ハッピー・フェイス・アドバンテージ・エフェクト」と言う。旦那さんが妻の怒りよりも喜びを認知しやすいと言うことは、夫婦円満の秘訣でもあり、決して旦那さんが鈍感な訳ではないことを世の奥様方は覚えておいていただきたい。  

 また、集団における表情検出は、怒りが最も的確に検知されることが知られている。これを、「フェイス・イン・ザ・クラウドパラダイム」と言う。国会で野党の追及が目立つのは、この効果のせいだと言うことができる。

講座 心理学概論 8 感情心理学 8 情動2要因論

 先述した「ジェームズ=ランゲ説」と「キャノン=バード説」の論争の中で、ひときわ注目を集めた心理学説がある。それは、「シャクター=シンガー説」と呼ばれる理論である。ここでは、この理論を巡って考察を進めたい。  

 ここでは、理論の説明の便のため、単なる心理的反応をも含んで用いられる「感情」と言う用語ではなくて、生理的反応を随伴する「情動」と言う概念から人間の心理機序を考えることにする。  

 「情動」は、意図的な中枢神経系の反応であるとともに、無意図的な自律神経系の反応でもある。例えば全力疾走した後、「疲れた」と言う意識上の認識を伴いつつも心拍数が上がるなどの反応がある。他にも、「僕と結婚してください」とプロポーズする男性は、「勇気を出し」ながら顔を真っ赤にすることだろう。このように、「情動」には、中枢・自律両神経系の働きが見られる。  

 このような事実をどのように説明すべきかを巡って、1964年にシャクターとシンガーは「情動2要因論」と言う考え方を示した。  

 具体的には、実験的に被験者にアドレナリンを注射し、覚醒状態にした。このときに、被験者らはいくつかの違った状況に置かれるように彼らは実験的に手配した。すると、被験者たちはその状況にふさわしい質の情動を体験した。お化け屋敷に置かれた被験者は何もしていないのに恐怖を感じ、ロマンチックな場面に置かれた被験者は何もしていないのに愛を感じた。  

 この事実を踏まえてシャクターとシンガーは「情動」の規定因は2つあると考えた。ひとつは「覚醒(arousal)」と言う中立的な生理的状態であり、もうひとつは「ラベル付け(labeling)」である。つまり、情動というのは、もともとはどのような情動としても体験できる「生理的覚醒」があるのだが、それが生じた状況の認知、すなわちラベル付けによって情動の性質が決定づけられる、と彼らは説明した訳である。  

 この理論を支持すると思われる有名な心理学実験に、「吊り橋実験」がある。1974年にダットンとアロンは、吊り橋を渡る男性と石橋を渡る男性の双方に橋の途中で魅力的な女性にインタービューをさせ、女性が「このアンケートについてもっと知りたいのでしたら、こちらに電話してください」と言って電話番号の書かれたメモを男性に渡した。  

 結果はドラスティックなものだった。吊り橋の途中でメモを渡された男性からは、ほとんど後日電話があった。だが、石橋を渡っていた男性からきた電話は被験者の1割にも満たなかった。シャクターとシンガーの説明通り、吊り橋を渡るときのスリルが、魅力的な女性の登場によって「好意」になったのだ。  

 この事実は、お互いをよく知らない男女がお化け屋敷に一緒に行くとか、ジェットコースターに一緒に乗るとかすれば、それがもしかしたら「愛」に変わる可能性を示唆している。  

 しかし、読者は調子に乗らないでいただきたい。近年、この理論には限界があることが示されている。賢明な方なら、心理学の知識を使って上手く自分をアピールすることより、イノセントに正攻法で人付き合いするのがエチケットと言うものだろう。

講座 心理学概論 8 感情心理学 7 感情と適応

 「人間は社会的動物である」とよく言われる。人間に限らず、社会を持つ動物には必ず感情がある。それゆえ、多くの研究者が感情とは社会生活を営む上での対人関係の調整機能である、と考えている。しかし、ここでは敢えて異なるアプローチで感情を考えてみたいと思う。  

 ここでは、喜怒哀楽をはじめとする感情が、人間の生存や社会的活動にとってどんな適応的意味があるのかについて考えたい。  

 喜怒哀楽と言っても、具体的には様々な感情がある。「喜」には達成感、成功感や幸福感などがあるだろうし、「怒」にはかんしゃく、不正義への抗議や課題を達成できていないことへの苛立ちなどがあるだろうし、「哀」には孤独感、嫉妬、恥、不幸への同情や悲惨な状況への悲しみなどがあるだろうし、「楽」にはリラックス感、快感、心地よさや余裕感などがあるだろう。  

 しかし、先人たちはそれらをまとめて「喜怒哀楽」と表現するようになった。それがなぜなのかを心理学的に考えると、ズバリ「適応」と言う物差しで感情と言うものを考えているからだ、と言う結論に達する。  

 「適応」とは何かと言うと、「環境の中でうまくやっていくこと」と定義できる。特に人間の場合、「社会の中でうまくやっていくこと」と言う意味合いが強くなる。現実に社会心理学者に「適応とは何ですか?」と質問すれば、恐らくそう言った趣旨の答えが返ってくることであろう。  

 ダーウィンは、人間の感情と言うものを、「適応」と言う文脈の中で捉えた初めての人である。彼の1872年の「ヒトと動物の表情」と言う論文で、彼はこの問題について論じている。  

 人間は社会的存在として産まれ落ちた時にすでにいくつのかの感情を持ち合わせている。もし乳児に感情がなかったら、欲求を他者に発信できず、したがって生存を続けることはできない。成長するにつれて、感情は分化し、複合化していく。特に感情の複合(たとえば虚無感と理想が複合して「羨望的不保持感」になるように)は、我々が心理学徒であろうとなかろうとよく使う「コンプレックス」と言う言葉で馴染みが深いであろう。  

 確かに、(「社会心理学」の章で触れるように)フレンチとレイヴンが指摘しているように、社会的勢力が多数派か孤立かでは感情の受け取り方は異なるし、この後の節で述べるように状況認知が感情の主観的性質を変えてしまうことは、前提として覚えておかなければならないが、それを取り敢えず脇に置いておくとすれば、人間の感情は、行動論的見地から見ると、理解しやすいのかも知れない。つまり、行動の促進と抑制を制御するのが感情だと言う認識のしかたである。この意味で言うと、2つの軸で感情を考えることができる。1つの軸は「行動の促進か抑制か」というものであり、もう1つの軸は「誰の行動を促進ないし抑制しようとするのか、自分か他者か」と言うものである。  

 上記のような見地から見ると、「喜」は、例えばバレンタインデーにチョコを贈ったらホワイトデーにお返しをもらったと言うように「他者の行動を促進する」機能を持つと同時に「自分の喜べる自分の社会的行動を促進する」ものであり、「怒」は場違いな発言をしたら相手にされなくなったと言うように「他者の行動を抑制する」ものであり、「哀」は葬式に自由な服装で出席しないと言うように「自分の行動を抑制する」ものであり、「楽」は風呂上がりが気持ちいいので毎日風呂に入るようになったと言うように「自分の行動を促進する」ものだと言って良いであろう。その目的は、もちろん人間が社会で「うまくやっていく」ためである。そのような学習を促進する内的メカニズムのことを感情と考えることができるだろう。  

 この節の結びとして、このような見地から感情を考えた場合、「愛」、「恥」、「軽蔑」はどのような位置づけになるのかを読者諸氏には演習として課すので考えられたい。

講座 心理学概論 8 感情心理学 6 感情の起源説

 我々の感情は、日常的な経験からは、たとえばあるギャグを聞いたとき、それが面白いと思えば、楽しい気分になって、笑うという反応が起きると言うように、刺激-感情-反応と言う一連の流れを体験するものだと感じられるであろう。  

 ところが、ジェームズが書いた「心理学原理」と言う大著の中で、彼は「楽しいから笑う」のではなくて、「笑うから楽しい」のだと言う「感情の末梢起源説」を唱えた。なぜそのような呼称でそのアイディアが語られるのかと言えば、笑うという表情の変化や顔面筋の変動が感情を誘発すると考えたためである。同じ時期にランゲもこのような発想で感情を捉えていたので、この「感情の末梢起源説」は、「ジェームズ・ランゲ説」と呼ばれ、さまざまな議論を引き起こしてきた。  

 そう言った議論の中でひときわ目立った、それとは正反対の考え方、すなわち我々の常識に近い、「楽しいから笑う」と言う理論を、ジェームズ・ランゲ説が仮定していた末梢反応が感情の生起にとって必要だとする仮説を実験的に、例えば麻酔薬を用いて末梢反応が起こらないようにした被験者でも感情は起きると言うように反証的に実証する研究を根拠に否定したキャノンやバードの研究に依って立つ仮説のことを「キャノン・バード説」と言う。このような研究では、たとえばネコの末梢神経から脳へのフィードバック神経系を外科的に遮断し、それでもネコの情動反応は起きるなどの複数の証拠を根拠にしていたので、彼らの説は広い支持者を持つことになった。  

 現在では、ジェームズ・ランゲ説のような極端な見解を持つ心理学者はほとんど見かけないが、有名な感情心理学者であるザイアンスが「顔面血流説」と言う、顔面の血流の変化によって感情は生起するという現代版ジェームズ・ランゲ説を唱えている。因果関係までは実証されていないが、血流と感情の相関が認められる程度までは確かめられている。  

 この議論が有用だったのか、それとも不毛であったかのかについては、考え方次第であろうと筆者は考えている。確かに、身体反応が感情の原因とまでは言えないであろうが、感情の維持・増幅要因ではあるだろうと考えることは、両者の研究の捉え方次第では可能だろうと考えられる。パーティーでスピーチをしているひとが一発ギャグを飛ばしたとして、場が和み、表情が緩むことがさらにパーティーを楽しいものに変えてくれるという経験をお持ちの方も多いであろう。そうであればザイアンスの研究もあながち無駄なものだとは言えないのかも知れない。  

 この感情の起源説における議論は、確かに当初は常識へのアンチテーゼとして心理学がよくそうあるように、「常識は疑ってかかれ」と言うことを教えてくれるものなのかも知れないが、立場の対立を越えようとすれば、よりよい知見にたどり着くための道しるべだったのかも知れない。このようなことは、心理学に限らず、あらゆる学問に通じる一面を持っていると考えさせられる。

講座 心理学概論 8 感情心理学 5 感情心理学の方法論

 我々は、会話やメールなどでひとの気持ちを伝えたり伝えられたりする。そのとき、我々はそれらの文脈から相手が持っている感情を読み取ることも多いであろう。  

 しかし、厳密に言うと、こうした心の機微は文脈が変われば読み取り方も違ってくるので、実験を通しての科学としての心理学の方法論からは、文脈を限定するか、日誌法・観察法・質問紙法などによって客観化しなければ一定の結論を導くことは難しい。  

 最も感情心理学で使用されることが多いのは、質問紙法である。ある経験をしたあとで、あるいはある経験を思い出して、感情語の対から当てはまる当てはまらないを被験者に回答してもらい、感情の測定を行おう、と言う方法である。ただ、この方法は心理学内で長く続いた「主観測定か行動測定か」の問題で「行動測定」が持つ言葉を持たない乳幼児や動物、言葉の理解が不確かなひとびとへの適用が難しいと言う難点がある上に感情を被験者が正確に認知して報告しているかが確認できないという限界を持っている。  

 観察法は、感情の表出を研究者が評定する第三者的観察と、それを被験者が推測評定する当事者観察法の2つに大別できる。後者は文化人類学的方法で、エクマンらによる基本的感情の文化普遍性の主張の方法論的根拠となっている。  

 感情の測定には生理学的アプローチもある。呼吸・発汗・血圧・心拍・瞳孔測定などによって、特定の感情に特有な生理学的変化を探る研究などで使用されている。他にも血中ホルモンや脳の活動を測定して感情の生理学的基盤を探る研究もある。特に後者で発展著しいものに、fMRIなどによる脳機能画像的アプローチがあり、血中酸素濃度から感情が生起しているときにどの脳部位が酸素を消費しているかから脳の活動部位を探り出す研究が盛んに行われている。このような生理学的アプローチは、被験者を拘束するので被験者の負担も大きいが、意図的に被験者が反応をコントロールすることができないので、信頼性が高い方法だと言える。  

 最後に、感情の研究における方法論のもっともオーソドックスなものとして実験法を挙げられるであろう。実験法では特定のトピックや物語を被験者に提示し、普遍的に感情に伴って起きる認知・行動への影響が認知心理学的研究などで調べられている。社会心理学などでは気分誘導という手続きが取られることが多い。すなわち、被験者が特定の感情状態になるように状況を作為的に設定し、デセプション(騙し)を使って本来の実験の目的を隠してある感情状態が生じたときにひとはどのように行動するのかを法則的に見出していく実験手続きである。現在、このような実験がどこまで許されるかについて、活発な議論が行われている。

講座 心理学概論 8 感情心理学 4 二次的欲求

 前節で「生理学的基盤を持つ欲求」のことを一次的欲求と呼ぶことを学んだと思うが、社会的存在としての人間が社会にその存在位置を占め、それを維持するか、あるいはさらに高めていこうとするとき、人間はその方法としての「学習された欲求」を抱くのが通例ではないだろうか。たとえば、自分が医者になりたいと思っても、直接医学を学ぶのではなく、医学部に入学できるためにセンター試験の5教科7科目を高校時代に学び、直接医学とは関係ないような教科の学習を余儀なくされるのが、現在の我が国での試験制度である。  

 さらに、たとい医学部に入っても自分が専門にしたい分野だけでなく、医学一般についての知識教育が行われ、それが医師国家試験で出題される仕組みになっており、受験のための勉強がここでも要求されるのである。つまり、自分が医業で存在価値を持つためには、言い方は悪いが「不要な知識」の勉強を再三要求されるのである。  

 このように、「何かを得るために、文化が要求する方法を学習する際の、その方法に対する欲求」のことを「二次的欲求」と呼ぶ。  

 だが、受験勉強で、やりたいこととは直接関係ない科目を学習することは、なかなか「やる気」も起きないものであろう。それをやる気にさせるのが、現代の教師に求められることであり、この問題をビジネスとして解決してくれるのが受験産業であろう。かくして獲得された「勉強一般へのモチベーション」は、立派な二次的欲求である。  

 一次的欲求の節で触れたとおり、人間の一次的欲求を満足させる方法は文化固有のルールによって統制されている場合がほとんどである。尿意・便意を催したらそこでするのではなく、トイレに行って用を足すことに見るように「トイレに行きたい」と思うのは、文化固有の方法の学習に由来する二次的欲求として現れる。  

 二次的欲求の成立機序は、条件付けや観察学習など、一括りにして言えば「学習」に求められる。  その最たるものは「お金」ではないだろうか。「お金」とは、権力による汎用信用担保債権、分かりやすく言えば「国家が保証するありがたみの指標(サンクスメーター)」のことである。有名な「金色夜叉」の中には「ダイヤモンドに目がくらみ」と言う台詞があり、それが有名であるが、原作ではそれは「お金」だと書き記されている。  

 幼少期を貧乏で過ごした世代の方々は、筆者より歳が二回り上の世代だと思うが、貧乏がいかに辛いことであるかを知っているだけに、筆者のような一般論に反発を覚えられることも自然なことであろう。未だに多くの発展途上国では、子どもの人身売買が横行していて、懸念の声が聞かれるが、貧困の根絶は容易なことではなく、教育の重要性も叫ばれている。  

 既に鬼籍に入った筆者の祖父は、尋常小学校時代、後に京大名誉教授になり文化勲章までもらった人物と学校で成績の一番二番を競っていたそうだが、いつも明治から大正、昭和、平成と生きた人生を振り返って、途上国の教育の充実の重要性を事あるごとに説いていた。筆者も確かにそう思うが、問題は教育の中身だと痛切に思っている。