ミードの有名な著作に「サモアの思春期」と言う本がある。それによると、学校教育やキャリア発達と言う因果な文明社会に「思春期」と言うスパンが認められるとしても、サモアにはそれがなく、人間のライフステージと言うものがいかに文化の制約を受けているかが良く分かる。
欧米文化がものを言う世界では、「発達課題」とか「キャリア」とか、制度的に縛られた青年期をはじめとする各ライフステージでの問題がまるで普遍的なことのように語られることが多いが、そのようなレストリクション(制約)は、ある価値観の下でのことだと言うことを忘れないでこの文章を読んでいただきたい。
エリクソンは人間の発達段階を8つのステージに分けて考えている。それについて説明することにしよう。
まず生まれた直後の乳児期に乳児が直面する発達課題は「基本的信頼-不信」であると言う。母親が「安全基地」にできるかできないかは、後々の親子関係に大きな影響を及ぼすことは誰でも理解のできることであろう。
次に幼児前期の発達課題は「自律-恥・疑惑」である。トイレで適切な排泄ができないと、自律に問題を抱えることになる。これは、動物のしつけでも同じことが言える。
幼児後期になると、遊びなどの自主的な活動が見られるようになり、その発達課題は「積極性-罪悪感」になる。遊びにおいてしくじりをすると、「すまない」と言う気持ちが生じるためそうなのだとエリクソンは考えた。
ここからが西洋の価値観の色彩の濃い発達段階になるのであるが、児童期の発達課題は「勤勉性-劣等感」だと言う。筆者のような身の丈が原始人の人間から見るとほとほとバカバカしいことなのではあるが、小学生は親の価値観の影響もあり、自分の成績を上げようとし、できないと劣等感に苛まれるのだとエリクソンは考えた。現代文明社会にあっては、学校における成績の不振は非行と親和性があり、いわゆる不良少年は「文化的に作られたドロップアウト」と言えるように思われる。
児童期までの夢と言うのは、大方の子どもにとっては伝染病にかかったようなもので一時的なものであるが、現代労働社会においては「将来何で生計を立てるか」は重大な問題であり、その準備期として「青年期」は位置づけられている。すなわち、青年期の発達課題は「アイデンティティ(自我同一性)確率-拡散」となり、「自分は何者で、これから何者として生きていきたいか」を模索し、時に悩み、明確化する時期だと言う。マーシャの考えでは、青年期を「早期完了」、「モラトリアム(職業選択への猶予期間)」、「確立」、「拡散」の4つの状態に分けることができると言う。
どんな青年期のアイデンティティの確立上の状態であれ、人間は嫌でも歳をとる。青年期に引き続いて成年前期がやってくるが、職場などで仲間とうまくやっていけるかは重大な問題なので、エリクソンはこの時期の発達課題を「親密-孤立」だとした。
一般に人間は成年前期に出産によって子どもを授かり、成年後期に子どもの巣立ちをバックアップする立場に回ることから、成年後期の発達課題は「生殖性-停滞」とされた。
そして人間は老年期へと入っていく。ひとが年老いて自分を振り返り見つめなおし、納得のいく人生を送れたかどうかの総括をする時期がこの時期であるため、老年期の発達課題は「統合-絶望」だと言う。
以上がエリクソンのいわゆるライフサイクル論である。彼の提唱した「発達課題」は冒頭にも述べたようにあくまで現代文明社会での枠内でのことであり、たとえば筆者のように現代の受験戦争に備えた受験勉強など一度もしたことがなく行き当たりばったりの人生を送り、「身の丈が原始人」と言うアイデンティティが確立したのが40代後半と言うように、誰にでも言える普遍法則とは言えそうにはない。
「発達課題」を挙げる学者は他にもハヴィガーストなどがいるが、あまりにも微に入り細に入った細かな発達課題を提唱しているせいで発達心理学の中であまり具体的には取り上げられないが、いわゆる「発達検査」で見る項目の参考にされることはある。