講座 心理学概論 9 発達心理学 10 発達課題

 ミードの有名な著作に「サモアの思春期」と言う本がある。それによると、学校教育やキャリア発達と言う因果な文明社会に「思春期」と言うスパンが認められるとしても、サモアにはそれがなく、人間のライフステージと言うものがいかに文化の制約を受けているかが良く分かる。  

 欧米文化がものを言う世界では、「発達課題」とか「キャリア」とか、制度的に縛られた青年期をはじめとする各ライフステージでの問題がまるで普遍的なことのように語られることが多いが、そのようなレストリクション(制約)は、ある価値観の下でのことだと言うことを忘れないでこの文章を読んでいただきたい。  

 エリクソンは人間の発達段階を8つのステージに分けて考えている。それについて説明することにしよう。  

 まず生まれた直後の乳児期に乳児が直面する発達課題は「基本的信頼-不信」であると言う。母親が「安全基地」にできるかできないかは、後々の親子関係に大きな影響を及ぼすことは誰でも理解のできることであろう。  

 次に幼児前期の発達課題は「自律-恥・疑惑」である。トイレで適切な排泄ができないと、自律に問題を抱えることになる。これは、動物のしつけでも同じことが言える。  

 幼児後期になると、遊びなどの自主的な活動が見られるようになり、その発達課題は「積極性-罪悪感」になる。遊びにおいてしくじりをすると、「すまない」と言う気持ちが生じるためそうなのだとエリクソンは考えた。  

 ここからが西洋の価値観の色彩の濃い発達段階になるのであるが、児童期の発達課題は「勤勉性-劣等感」だと言う。筆者のような身の丈が原始人の人間から見るとほとほとバカバカしいことなのではあるが、小学生は親の価値観の影響もあり、自分の成績を上げようとし、できないと劣等感に苛まれるのだとエリクソンは考えた。現代文明社会にあっては、学校における成績の不振は非行と親和性があり、いわゆる不良少年は「文化的に作られたドロップアウト」と言えるように思われる。  

 児童期までの夢と言うのは、大方の子どもにとっては伝染病にかかったようなもので一時的なものであるが、現代労働社会においては「将来何で生計を立てるか」は重大な問題であり、その準備期として「青年期」は位置づけられている。すなわち、青年期の発達課題は「アイデンティティ(自我同一性)確率-拡散」となり、「自分は何者で、これから何者として生きていきたいか」を模索し、時に悩み、明確化する時期だと言う。マーシャの考えでは、青年期を「早期完了」、「モラトリアム(職業選択への猶予期間)」、「確立」、「拡散」の4つの状態に分けることができると言う。  

 どんな青年期のアイデンティティの確立上の状態であれ、人間は嫌でも歳をとる。青年期に引き続いて成年前期がやってくるが、職場などで仲間とうまくやっていけるかは重大な問題なので、エリクソンはこの時期の発達課題を「親密-孤立」だとした。 

 一般に人間は成年前期に出産によって子どもを授かり、成年後期に子どもの巣立ちをバックアップする立場に回ることから、成年後期の発達課題は「生殖性-停滞」とされた。  

 そして人間は老年期へと入っていく。ひとが年老いて自分を振り返り見つめなおし、納得のいく人生を送れたかどうかの総括をする時期がこの時期であるため、老年期の発達課題は「統合-絶望」だと言う。  

 以上がエリクソンのいわゆるライフサイクル論である。彼の提唱した「発達課題」は冒頭にも述べたようにあくまで現代文明社会での枠内でのことであり、たとえば筆者のように現代の受験戦争に備えた受験勉強など一度もしたことがなく行き当たりばったりの人生を送り、「身の丈が原始人」と言うアイデンティティが確立したのが40代後半と言うように、誰にでも言える普遍法則とは言えそうにはない。  

 「発達課題」を挙げる学者は他にもハヴィガーストなどがいるが、あまりにも微に入り細に入った細かな発達課題を提唱しているせいで発達心理学の中であまり具体的には取り上げられないが、いわゆる「発達検査」で見る項目の参考にされることはある。

講座 心理学概論 9 発達心理学 9 思春期の心理

 大方の人間は産まれた時から男性か女性かが決まっており、自分の性器を幼児の時に自覚する。これを「第一次性徴」と言い、子ども仲間で遊んでいるうちにいつしか自覚を持つことが多い。  

 それに対して、小学校高学年にもなると、男子では精通、女子では初潮などに代表される性機能や体毛の出現などの外見の変化などの大人への階段を歩んでいく契機となる。これを「第二次性徴」と言う。  

 生理学的なこれらの変化の基盤は、性ホルモンの分泌の活発化によってもたらされる。男子ではテストステロン、女子ではエストロゲンやプロゲステロンなどの性ホルモンによって彼らはより「男らしさ・女らしさ」を獲得する。  

 男子の精通はおよそ10~11歳の間に起こる。女子ではそれと同じ時期に乳房のふくらみが見られ、10~16歳の間に初潮を迎える。小学校高学年から中学校に通う青年前期の子どもたちは、そうした生理学的変化に直面するわけである。  

 ところで、これら思春期の第二次性徴に直面した児童・生徒の心理的反応はどのようなものかについての研究では、男子は大方「当然のこと」と受け止めるが2割ほどの男子は否定的な態度を表し、女子では受容と否定的態度が拮抗して見られるようである。  

 このような思春期の子どもの諸変化は、周囲の大人たちの彼らへの接し方の態度を変える。つまり、「もはや子どもではない」と周囲に感じさせるために、大人はそれにふさわしい価値観を思春期の子どもたちに期待するようになるのである。子どもたちはより自分の内面に目を向けるようになり、大人と衝突することが多くなる。これを「第二次反抗期」と言う。  

 認知的にはピアジェの言う「形式的操作期」に達し、抽象的な思考が可能になるとともにそれに合わせた教育内容が与えられる。  

 性には2つの側面がある。ひとつは生物学的性で、「セックス」と言われる。もうひとつは社会的性で「ジェンダー」と呼ばれる。思春期の子どもたちは、この「ジェンダー」と言う性役割意識を意識し始め、徐々に内面化していくのである。  

 ときに思春期の子どもは、たとえば代々続く親の家業を継ぐことを期待されたりしていると、心が不安定になり、それが情緒の面にも及んでくることがある。激しい感情と突発的な言動で仲間からいぶかられることも多々ある。我が国の憲法には「職業選択の自由」が謳われており、親をはじめとする周囲の大人が価値観を押し付けることは誤りであるので、思春期の子どもの意思を尊重したかかわりが肝要である。  

 特にこの時期の子どもは、自分の内面と向かい合うことによって「自分とは何者か」についての模索を深めていく時期である。エリクソンの発達段階で「アイデンティティ(自我同一性)の確立」が発達課題になる時期なので、教師などはその後押しをすることが重要な役割と言えるであろう。  

 思春期の子どもは、「青年心理学」と言う著書を世界で初めて書いたホールの「疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)」と言う言葉に表現されているように感性が揺れ動く時期なのでいわゆる「いじめ」などが起こりやすく、それを適切に発見し解決するとともに暖かく見守る周囲の目が必要だと言えよう。

講座 心理学概論 9 発達心理学 8 児童心理学

 子どもが小学校に通い始めるあたりから子どもは自分と同年代の仲間の心や立場を理解する能力が急激に発達することによって、彼らの準拠集団(自分の心のよりどころとなる集団)は家庭から仲間にシフトしていく。前節でも述べたが、子どもたちには自生的な規範ができ、「心の理論」が洗練されていく中で仲間中心の社会化を遂げていく。このような仲間中心の児童期には、家族との会話が仲間関係の話が話題になることが多くなり、時として家族の価値観より仲間の価値観を大切にするために、子どもたちが反抗的に見える時期があり、これを「ギャング・エイジ」と言う。  

 学習の面においては、まだ具体的操作期と言うこともあり、様々な学習における制約を子どもたちは受けてはいるが、自分ひとりでできることと教師などの大人の適切な介入によってできることの範囲が異なり、概して大人の介入した時の学習内容の方が高度なことが一般的である。この、「自分ひとりで学べること」の「大人の手を借りて学べること」への導きが学校生活では重要な問題だと考えられ、大人の介入によって自分ひとりの時よりもより高度な学習ができるその高度な学習範囲のことをロシアの心理学者ヴィゴツキーは「発達の最近接領域」と呼んだ。  

 語彙の学習にかんして、子どもの認識上用いる4つの制約が指摘されている。  ひとつは「事物全体的制約」であり、ひとつは「相互排他的制約」であり、ひとつは「分類学的制約」であり、最後に「形状的制約」である。「事物全体的制約」と言うのは何らかの事物を見て語彙が与えられたならばそれはその事物の部分ではなく全体を意味すると学習することである。「相互排他的制約」と言うのは、ひとつの対象にはひとつの意味しかないと言う信念である。「分類学的制約」と「形状的制約」は同レベルの語彙学習上の制約で、子どもがカテゴリー認識によって事物を認識すると言う考え方のことを「分類学的制約」と呼び、いやいやそうではなく子どもは対象の形の類似性によって事物を認識するのだと言う考え方のことを「形状的制約」と言う。  

 人権上の配慮から最近ではあまり用いられなくはなっているが、子ども同士の関係性を把握する有力な方法として、モレノが考案した「ソシオメトリックテスト」と言う、子どもに「自分が好きな子」と「嫌いな子」を何人か挙げさせ、子どもの関係性をダイヤグラムで表すものがある。多くの子に好かれる子のことを「人気児」、嫌われる子を「拒否児」、誰からも好かれも嫌われもしていない子を「孤立児」と呼び、一般に人気児はクラスの中心的存在でその言動の影響力が強く、拒否児は後々問題行動を起こすことが多いと言う知見がある。  

 児童期の子どもにとって、仲間から認められることはどの児童にとっても最大の関心事であり、したがって子どもの行動にもそのことが大きく影響する。  

 しかし一方で、現代の成績偏重の教育にあって、子どもたちのかかわりが成績と言うファクターで大きく左右され、「いじめ問題」の温床になっていると言う指摘もある。子どもの仲間からの承認欲求は非常に強いので、子ども同士のかかわりの中に成績を混入させない教育的な工夫が必要だと言えよう。と同時に、家族関係がうまくいっていない子どももいじめのターゲットになりやすい。これら2つのファクターが揃っているような子どもには特別な配慮が必要である。  

 最近の子どもは、筆者が育った時代とは異なり自然の中で子ども関係が育まれていくと言うよりスマホゲームなどの人為的環境でしか子ども同士の関係が育まれない心理的に貧しい状況にある。このような子どもを取り巻く環境が子どもの人間性に深刻な影響をもたらしていないかは常に注意しておく必要がありそうである。

講座 心理学概論 9 発達心理学 7 断章 言語発達

 子どもの象徴機能の発達としてピアジェは言語発達を考えた。また、それが目に見える会話のような「外言」から思考のような「内言」に移行していくと言うヴィゴツキーのようなアイディアもある。  

 著名な言語学者であるチョムスキーは、その生成文法論の中で、人間には誰にでも生得的に備わっている「普遍文法」と言うものが存在し、どの言語圏に生まれるかによってその関数的構造が決定されていくと言うアイディアを主張している。筆者は実は学生時代に彼の言語論を読んで、長らく反発を覚えてきた人間である。  

 と言うのは、乳幼児にとっての言語と言うのは初歩的なコミュニケーションとして母親との間で本格的に始動するのであるが、乳幼児と言うのはどこの国のどこの言語環境に置かれても基本的な言語構造は変わらないと考えているためである。  

 たとえば、先に触れた「情動調律」などでは、子どもが何か声を出したときに母親が手のひらをひらひらさせることを繰り返されることによって、子どもは「なるほど、それがこの僕の気持ちを表しているのだな」と言うことを覚えていくわけである。  

未開人と文明人の言語では、未開人の言語の方が複雑なことが知られている。おそらく、言語に節約性が伴わないために思考が洗練されなかったためと考えられる。  

 筆者の見るところ、言語の構造と言うものはそれほど複雑ではない。言語を構成する要素はたった3つしかないと筆者は考えている。ひとつは「与件」、ひとつは「様態」、そしてもうひとつは「関係」である。表現の順序や形は確かに異言語間では違うが、構成要素に変わりがあるわけではないと考えている。  

 たとえば、「私はとっつぁんである」と言う陳述は、「与件(私)」、「関係(は)」、「与件(とっつぁん)」、「様態(である)」と分析できる。  

 そして、言語の獲得の初期の子どもたちの発話なり表現なりは基本的に「与件-関係-様態」と言う形を取っているように見える。たとえば「ブーブー」と言う発話は、この一語に「車(与件)-は(関係)-走る(様態)」と言う意味構造を担っている。これは人間にあらかじめ備わっている認知様式の表現型だと考えることができる。表向きには「関係」については最も遅れて表現が確立すると考えられる。  

 言語と言うものはこのように一定の人間の知覚様式の制約を受けて生まれたものであると思われる。その点で世界の言語には共通性が見られる。  いま流行っているピコ太郎さんの「PPAP」にしても、このような言語の本質的性格がよく出ている例であろう。「This is a pen.」と言う一句を取っても、「This(与件)-is(関係)-a(様態)-pen(与件)」と分析できる。フレーズにかんしても同様のことが言える。「Back to the future」と言うフレーズは「Back(様態)to(関係)the(様態)future(与件)」と分析できる。  

 このように、人間の知覚様式を反映しない言語もなければ、言語によって知覚が耕されない言語も存在しない。従来の細かな文法の構成要素を念頭に置くより、この方がよほど豊かな言語理解の枠組みになるのではないであろうか。  

 筆者はそう考えているが、皆さんはどうであろうか。

講座 心理学概論 9 発達心理学 6 社会化と素朴理論

 この節では主に幼稚園期・学童期の子どもの心理的発達について述べる。  

 子どもの自己像と言うのは、バンデューラが示した「観察学習」のような要因が強く働いて、他人が自分にどんな認識を抱いているかについての興味から自己像を形作る「鏡映的自己」と言うクーリーの主張したようなもののように見える。だがこれは自己像の形成過程についてのアイディアであり、自己像の中身までは語らない。  

 ミードは、この「鏡映的自己」の中身は、社会的相互作用の結果であり「役割取得」であると言っている。これについてもう少し思考を進めたサリヴァンは、このような自己像はミードのような「一般化された他者」によるのではなく、母親のような「重要な他者」によってもたらされると考えた。母親が是認する行動については「よい私」、禁止する行動には「悪い私」と言う概念がもたらされ、これが後々の道徳的自己になっていくと言う。この考えを聞いて、自我と言うものは親の規範である「超自我」を欲望の源泉である「イド」との調整役として発達すると考えたフロイト理論を思い出す方も多いことであろう。  

 少し筆者の主体的な考えを述べると、学童期の子どもは「重要な他者」がサリヴァンの言うような母親のみならず、クラスメイトのような同年代の子どもたちでもあり得るように思われる。と言うのは、家庭を離れた学級場面では、子どもたち自身から自生する規範があるように思われるからである。たとえば、子どもと言うのは学校のトイレで大便をする子どもをからかったり馬鹿にしたりする。これがなぜそうなのかについて考えてみると、子どもと言うのは大人以上に民俗学の柳田国男が指摘しているような「ハレとケ」に敏感で、「ハレ」の場である学校で「ケ」である大便をするとそれが恥ずべき行為だとされ、そうなるようになるからであると考えられるからである。  

 さて、幼稚園の組や小学校の学級場面などにおいて子どもが何をいつ学ぶべきかをピアジェ理論は示したとすでに述べたが、彼のような「シェマ」から子どもの認識を考えるのではなく、「素朴理論」と言う概念発達の過程から子どもの認知発達を考える研究者も多い。ここでは、その代表的なケアリーの研究を紹介することとしたい。  

 彼女は4歳から10歳までの子どもの世界観を「素朴理論」と呼び、はじめのうちは生気論的に世界を捉えている子どもが学校教育や大人の概念などから学ぶにつれてより常識的な世界観に変わってゆくことを見出した。そうした概念的変化が連続的に起こるのか不連続的に起こるのかは議論の尽きないところではあるが、ケアリーは科学哲学で言う「共約不可能性(ある範型では捉えきれないこと)」のような問題に子どもが直面することによっていわゆる「パラダイムシフト」のような不連続的な概念的変化を遂げると考えている。これはピアジェ理論における「シェマの同化と調節、均衡化」と言う考えよりもはるかにスケールの大きな考え方である。ただ、未開民族の人間認識と言うものを考えると、ただ漫然と時が経過すればそうした概念的変化が起こるのかどうかについてはフィールドワークが必要になってくるだろう。  

 子どもの社会化は、家庭と学校と言うブロンフェンブレンナーの言う「メゾシステム」の両者およびそれらの相互作用の中で展開していく。そこで重要な役割を果たすのが、先にも触れたプレマックの「心の理論」である。ひとがどんな状況にあってどんな心理的動きがあるのかについて子どもなりの推測がないと、人間関係自体が機能不全に陥ってしまう。「心の理論」は、人間が社会化するうえで適応の成功と失敗に大きなカギを握っている。  

 要するに、社会化の過程で素朴理論は洗練されたものになってゆくのだろう、と言うことである。

講座 心理学概論 9 発達心理学 5 乳幼児の情緒的発達

 ブルーナーによると、産まれて間もない新生児でも、自分の視知覚が最も鮮明に対象を捉えるときに満足の情動が見られると言う。彼によれば、乳幼児と言うのは能動的な存在であり、ロックの精神白紙説も適切ではなければライプニッツが言うような予め形成された実体と言う考えが適切でもないと言うことになる。  

 一般に人間の赤ちゃんは生後間もなくから嫌悪、興味、満足の情動を示し、3ヶ月齢になると悲しみ、驚き、喜びの情動が加わり、6か月齢では怒りが、それにやや遅れて恐れが見られるようになる。これらの感情の起源は、先天的視覚・聴覚障害の乳幼児にも見られることから、先天的に備わっているものと考えられている。生後1~2年になるといわゆる「二次的情動」である照れや共感、そして羨望などのより社会的な情動が見られるようになる。 

 ハーロウのアカゲザルの実験で見出された「アタッチメント(愛着)」と言う赤ちゃんが示す現象は、赤ちゃんが安全感覚を得るために示す行動だと定義されている。エインズワースは生後1年の子どもを母親と引き離し再会させられるときの反応の違いから乳幼児を4つのタイプに分ける「ストレンジ・シチュエーション法」と言う類型化技法を開発した。4つのタイプとは、母親を安定した心理的基地として行動できる「安定型」、母親が子どもを統制的に扱うために母親を安全基地とできない「回避型」、母親の庇護行動が一貫性を欠いているために行動が不安に満ちたものとなる「両価型」、母親におびえているような行動を示す「無秩序・無方向型」のことである。子どもがこのような母親とのダイナミックなかかわりの範型を獲得するこの範型のことをボウルヴィは「内的作業モデル」と名付けた。  

 母親は、赤ちゃんをあやすときなどに、子どもが喜んで「アーアーアー」とか発声するときに手をひらひらさせるなどの別の表現方法を子どもに与えることが多い。これを「情動調律(アチューンメント)」と言い、子ども自身が自分の感情や気分を明確化し、情動を分化していくのに役立っている。  産まれたばかりの赤ちゃんは、空腹や温度、疲労などによって情動が喚起されることが多いが、それを母親が察知し、適切に静穏化するが、このような母親のかかわりのことを「情動調整」と呼んでいる。3ヶ月齢位になると赤ちゃんはそのような母親のかかわりによって自分が楽になれることをおぼろげながらに理解し、5か月齢にもなると、泣き方によって母親からの応答を変えることを覚えるようになる。  

 生後9ヶ月齢以降の子どもは、自分だけではどうして良いか分からない状況に置かれたときに重要な他者(多くは母親)の反応を見て自分の行動を調節すると言うような「社会的参照」ができるようになる。キャンポスらの視覚的断崖(ガラスの下が白黒のチェックの断崖になっている境遇、1981)の研究では、子どもは母親が安心の表情をしているときにはためらいなく断崖を渡るが、不安の表情をしているときには断崖を渡らないと言う知見を見出している。これは、子育て中のお母様方が一番心配な子どもが危険物に近づいたとき、母親がどうすればそれを防げるかと言う問題の大きなヒントとして考えるべきであることを強く示唆している。  

 子どもにとって一般に母親は自分の生存を守ってくれるとと同時に、自分の欲求や感情を向け、それを適切に扱ってくれる存在である。この適切さのことを「情緒的利用可能性」と言い、もし母親にこの資質が欠けていると、学習心理学のところですでに述べたセリグマンのイヌのように「学習性無力感」のような心の病理に子どもは陥ってしまう。  

 いずれにせよ、母親と言うものは赤ちゃんにとって最も重要な他者であり、母親が子どもの心を読み取って適切に対処してあげられなかったりすると発達障害などの一因ともなりかねないので、子どもの情緒が安定するように行動するように心がけることが子育てでは極めて重要であると言うことを指摘してこの節を締めくくりたい。

講座 心理学概論 9 発達心理学 4 ピアジェ理論

 近年はスイスの心理学者ジャン・ピアジェのいわゆる「ピアジェ理論」への心理学者たちの挑戦が盛んで、先の節で述べた「乳児の有能性研究」などから一定の修正を迫られている「ピアジェ理論」であるが、彼の自分の子ども3人を観察して得られた洞察からなる彼なりの子どもの認知発達についての理論は当時として画期的であり、「ピアジェ理論になくば発達心理学にあらず」と言うほどの優れた洞察に満ちた理論であった。この節では簡単に彼の子どもの認知発達についての理論を紹介することにする。  

 彼は子どもの認知発達について4つのステージに分けて子どもを捉えた。産まれてから2歳ぐらいまでの間を「感覚運動期」、2歳から7歳くらいまでの間を「前操作期」、7歳から11歳くらいまでの間を「具体的操作期」、11歳以降を「形式的操作期」としたのである。  

 まず、「感覚運動期」であるが、これはさらに6つのステージに分けて考えられている。誕生から1ヶ月くらいまでは「反復の練習期」で、主として反射の繰り返しからなる。生後1ヶ月から4ヶ月くらいまでの間を「最初の習慣期」と呼び、お乳を吸ったり指をしゃぶったりと言った自分の行為に興味を持ち、それが習慣化していく時期である。この習慣化の過程を「第一次循環反応」と言う。4ヶ月半から7ヶ月くらいのときは、「見ることとつかむことの協応期」と言って、「シェマ(こころの範型)」が協応する第二次循環反応が見られる時期になり、「見る」ことと「つかむ」ことが結びついて「見るものをつかむ」と言う習慣が見られるようになる。8~9ヶ月になると「二次的シェマの協応期」と言って新奇な対象を衝立をどけて見ると言うような探索行動が盛んになってくる。さらに11~12ヶ月になると「第三次循環反応と新しい手段の発見期」になり、新奇な現象に出くわすと条件を変えて現象を探ったり、試行錯誤学習ができるようになり、18ヶ月にもなると「心的結合による新しい手段の発見期」に達し、それまで試行錯誤的だった学習は洞察的になる。以上が「感覚運動期」の特徴である。  

 2歳から7歳の間は「前操作期」と言い、人間に特有の言語に見るような象徴的思考や以前どこかで見た誰かの行為を真似る「延滞模倣」などが見られるようになり、子どもは「人間らしく」なってくる。しかし、この時期の子どもには彼とインヘルダーの「三つ山」研究(自分の見ている山の姿と他の人間が他のところから見ている山を同じ山の自他相違による見え方の相違だと理解できるかについての研究)に見られるように「自己中心性」と言う認知特性や「アミニズム(生きていないものにも命があると言うようなものの見方)」と言ったような認知的制約があって、広口のコップと狭口のコップの水位が同じなら水の量は変わらないと言う「保存概念の未獲得」の状態にある。  

 7歳から11歳くらいの間は「具体的操作期」と言って、「保存」概念が獲得されるが、たとえばいくつもの数字の書かれたブロックがあったとしても、ブロックの数しか答えられない時期である。

 しかし11歳を過ぎると、子どもは先に述べたようなブロックに書かれた数字同士を足し合わせると言ったような「形式的操作」ができるようになり、その思考は成人と同等に達する。ピアジェ自身、10歳で公の生物学にかんする投稿論文を書いているので、ここに述べているような発達による認知の完成がそれほど厳密な子どもの年齢と符牒するのか疑問であるが、それが彼の主張である。  

 ピアジェ理論は公教育に大きな影響を与えた。どの教科の何をいつ教えられるかを彼は示したからである。いま彼の理論は大きく再検討され出してはいるのだが、それは裏返せば彼がいかに公教育に大きなインパクトを与えた巨人だったかの証でもある。

 ただし、1970年頃から始まったピアジェ理論の再検討によれば、ピアジェ理論では大人の認知発達については何も語られていないと言う問題、またシーガルのピアジェ理論への批判にあるようにピアジェの与えた子どもへのタスク(課題)は子どもを誤答に導くような質問場面の設定なのではと言った問題などがあり、盛んに再検討が行われている。

 ピアジェ理論は公教育に大きな影響を与えた。どの教科の何をいつ教えられるかを彼は示したからである。いま彼の理論は大きく再検討され出してはいるのだが、それは裏返せば彼がいかに公教育に大きなインパクトを与えた巨人だったかの証でもある。

 ただし、1970年頃から始まったピアジェ理論の再検討によれば、ピアジェ理論では大人の認知発達については何も語られていないと言う問題、またシーガルのピアジェ理論への批判にあるようにピアジェの与えた子どもへのタスク(課題)は子どもを誤答に導くような質問場面の設定なのではと言った問題などがあり、盛んに再検討が行われている。

講座 心理学概論 9 発達心理学 3 乳児の特性と認知

 ポルトマンの指摘によると、人間の新生児はあと1年母胎の中にいるべきところを、人間特有の頭部の大きさの発達のため、その半分以下の10ヶ月と言う動物界では異例の幼さで出産され、これを「生理的早産」と言う。この説が広く認識されていた時代には、「赤ちゃんは無能である」と言う信念が心理学者たちの中にさえあった。新生児の視力は0.02程度で、これは筆者の裸眼の状態とほぼ同じである。  

 ところが、メルツォフとムーアは、新生児に誰かが笑いかけると新生児も笑うと言う「新生児模倣」と言う現象を見出した。誕生直後から赤ちゃんが「自発的微笑」を見せることは知られてはいたが、ここから心理学者たちは「赤ちゃんには何ができるのか」について真剣に検討する必要に直面した。新生児模倣にかんして言うと、1ヵ月齢の赤ちゃんは誰が笑いかけても笑い返すのだが、3ヶ月齢にもなると母親だけにしか笑い返さなくなり、母親がいるときでも隣にいるのか抱かれているのかで模倣の生じやすさが違うことも報告された。赤ちゃんがこうした能力を持っていることは、周囲からの働きかけを増やし、赤ちゃんが然るべき人的環境に置かれることを促進するものである。その傍証として、大方の赤ちゃんは誰から見ても可愛いものである。赤ちゃんに近い顔をしたアイドルがブレイクする理由として、この「ネオテニー(幼形化)仮説」が考えられている。  

 生後4ヶ月の赤ちゃんの認知能力を見るために、ケルマンとスペルキは赤ちゃんに真ん中を箱で遮られた一本の棒をゆっくりと左右に揺らして、箱をどけたときに予想通りの一本の棒が現れる事態と、そうではなく上下それぞれ別々の2本の棒が現れる事態で、注視時間に差があるかどうかを実験した。この「選好注視法」と言う乳幼児研究ではポピュラーな方法で見られた赤ちゃんの注視時間は、別々の2本の棒が現れた時に有意に長いことが確認された。赤ちゃんは状況が意外だったときに注視時間は長くなると考えられるので、赤ちゃんの「物体認識」は、ピアジェの生後18ヶ月にならないと「ものの永続性」は理解できないと言う指摘を裏切って、わずか4ヶ月の赤ちゃんでも「ものの永続性」は理解できることが判明した。  

 また、赤ちゃんはあるモダリティーの感覚(例えば、おしゃぶりの口腔内感覚)を感じただけで、別のモダリティー(例えば、おしゃぶりの視知覚)においても同定する能力があることが分かっており、これを「無様式知覚(amodal perception)」と呼んでいる。  

 生後1年にもなると、他者の表情から自分の置かれた状況を推察する「社会的参照」と言う現象が見られることになる。キャンポスらの行った「視覚的断崖(ガラス張りの下の白黒のチェックの地面がいきなり低くなる事態)」の実験では、赤ちゃんは母親がニコニコしていたら平然と断崖を渡り、おびえた表情をしていたら断崖を渡らないことが確認された。  

 以上のような知見が近年報告されるようになり、「赤ちゃんの有能さ」研究として現在も盛んに行われている。  

 最後に、3ヶ月齢未満に見られる乳児特有の諸反射を説明してこの節を締めくくろう。  抱いていた赤ちゃんを母親が遠くにそらすと、赤ちゃんは両手を広げて母親に抱きつくような素振りを見せる。これを「モロー反射」と言う。また、赤ちゃんの口に乳首をあてると、自然にリズミカルな吸引反応をする。これを「口唇吸啜反射」と言う。足の裏を押してやると、足の指が扇状に広がる反射は「バビンスキー反射」、足を地面に着くか着かないかくらいにして親が赤ちゃんの胴を持ち上げて赤ちゃんの体を進めると、まるで歩行しているかのような足の動きを見せるが、これを「歩行反射」と言う。

講座 心理学概論 9 発達心理学 2 「遺伝か環境か」論争

 ひとの顔立ちは両親のいずれかに似る傾向がある。これは読者諸氏皆さんが感じている常識だろう。  

 では、ひとの「心」ではどうであろうか?皆さんは少し戸惑われるのではないだろうか。  

 昔はロックの「精神白紙(タブラ・ラサ)説」に見るような「環境説」、ゴルトンの天才研究に見るような「遺伝説」の2つの説が華々しく取り上げられ、「遺伝か環境か(Nature or Nurture)」論争と言う非常に分かりやすい論争が繰り広げられていた。「環境説」を根城にしたのは行動主義の創始者ワトソンであり、「遺伝説」をそれとしたのは有名な発達心理学者のゲゼルであった。取り敢えず、この2人の象徴的知見を見てみよう。  

 ワトソンは、わずか11ヶ月のアルバートという乳児にウサギと触れ合っているときに決まって金属の衝撃音を聞かせ続けたところ、ウサギを見ただけで泣き出すようになった。このことから、人間の心は環境によって決定されると主張し、「私に1ダースの子どもを預けてくれたら、何者にでもしてみせる」と豪語した。しかし現実には彼の息子の1人は犯罪者になってしまった。  

 ゲゼルは、一卵性双生児の子どもの一方に階段上りを教え、もう一方には教えなかった。しかし、階段上りを教えなかった子も、教え始めた時期を相当遅らせたにもかかわらずすぐに階段上りができるようになった。このことから彼は、持って生まれた遺伝的傾向が時間とともに発現していくと言う「成熟優位説」と言う「遺伝説」を唱えた。  

 「遺伝説」には、もうひとつ、「行動生態学」の創始者の一人であるローレンツがハイイロガンのヒナに見出した「学習の臨界期(それを過ぎると学習が不可能になる時期)」と言う考え方の系譜があり、レネバーグと言う心理学者による人間の言語獲得の臨界期は10歳~12歳だと言う指摘がある。

 ところが、大きく分けて2つの意味で事はそう単純ではないことが分かってきた。  

 1つ目の意味は「遺伝」も「環境」も、それ単独では大した影響力がないと言うことであり、2つめの意味は「ひとの特性によって遺伝と環境の影響力は異なる」と言うことである。  

 1つ目の意味から説明しよう。ボーマンによる犯罪心理学的研究では、里親に出された子どもの犯罪率について、「実の親、里親どちらにも犯罪歴がある」、「両者とも犯罪歴がない」、「実の親のみに犯罪歴がある」、「里親のみに犯罪歴がある」と言う4群について調べた結果、後ろ3者の犯罪率に大差はないが、「実の親と里親どちらにも犯罪歴がある」群のみ高い犯罪率を示した。サメロフとチャンドラーは「相乗的相互作用説」と言う「遺伝と環境の相互作用から性格は形成される」と言う理論を提出している。  

 2つ目の意味であるが、要するに「年齢・人格特質によって遺伝の寄与率は違う」と言う知見が最近ではよく見られる。まず認知能力における年齢の役割であるが、学童期には30パーセント程度の遺伝の寄与率しかないが、中年以降になると70パーセントに跳ね上がるという知見がある。また、プロミンと言う心理学者が始めた「行動遺伝学」と言う心理学の新分野では、性格の遺伝寄与率は30~50パーセントくらいであることが明らかにされている。  

 また、性格の安定には遺伝の要因が大きく、変化については環境の要因が強いことも分かってきた。こうしたことを踏まえてクローニンジャーは、人格を「気質」と「性格」に分けて考える理論を展開している。  

 いずれにしても、確かに心理学的知見では「心」における一定の遺伝の影響は認められるものの、「現代」と言う土俵自体が歪んでいるかも知れないところで相撲を取っても意味がないように、我々は「知能」なり「性格」なりと言うアーキファクトに振り回されることなく人間により可能性のある見方を選ぶのが賢明であることは間違いのない考え方であることを指摘してこの節を締めくくることとする。

講座 心理学概論 9 発達心理学 1 発達理解のアウトライン

 人間と言う存在を考えてみようとするとき、人間がいかに「経験と学習の動物」かについて思い知らされることはない。  

 いくつかの反射とか、視知覚については人間の乳児でも持っているらしい、と言う「赤ちゃんの有能性」についての研究が近年盛んではあり、筆者も日本心理学会大会で発表した「乳幼児の中枢神経系支配の確立」が生後2週間ほどで見られるとか、ゲッツのヒヨコの研究から生後間もないヒヨコでも遠近感を知覚する能力があるとかの知見は増加傾向にはあるが、ことのほか人間の乳児を考えるときポルトマンの指摘した「生理的早産」の状態で産まれてくるなどの指摘は、決して古めかしい考えになったわけでもなく、器は持ってはいるが内容が決まっていないロックの指摘した「白紙状態(タブラ・ラサ)」の状態から人間の成長が始まると言う考えは、今なお人間の本性について深い洞察を与えてくれる。  

 乳児期になると、人間にとって決定的とも言えるいくつかの心の発達が認められる。有名な発達心理学者であるピアジェは、乳児から学童期にかけての発達を感覚運動期・前操作期・具体的操作期・形式的操作期の4つの段階に分けてそれぞれの時期の子どもの行動の心の範型である「シェマ」の獲得および、その理解の方略としての「同化」、環境適応のために「シェマ」を修正する「調節」、そしてそれらの関係性の維持としての「均衡化」の獲得についてかなり踏み込んだ見解を示した。一方ロシアの言語心理学者であるヴィゴツキーは、2歳頃から始まる人間の言語獲得を考察し、音声で行われるコミュニケーションである「外言」が内面化されて思考という形で「内言」に移行していくと主張した。  

 学習心理学の章でも出てきたプレマックと言う心理学者はウッドルフと言う同僚とともに5歳以降にひとがひとの心を伺う「心の理論」と言う子どもなりの人間の心の理解の枠組みが発達することを主張した。子どもが持つ「心の理論」の発達の様相が発達障害、就中自閉症の子どもでは阻害されていることも広く行き渡った心理学的知見である。  

 情緒的な面からのアプローチとしては、ハーロウと言う心理学者が針金でほ乳瓶のついた「ハード・マザー」よりもほ乳瓶はないが布でできた「ソフト・マザー」の方にアカゲザルの赤ちゃんがより長時間寄り添うと言う「愛着(アタッチメント)」と言う現象を見出し、ここからエインズワースと言う心理学者が幼児の愛着のタイプを4類型に分ける「ストレンジ・シチュエーション法」と言う子どもの見極め方が展開した。  

 学童期から青年期にかけては第2次性徴が出現し、彼らの心は動揺と安定化を繰り返すことが指摘され、都市部の方が農村部よりも第2次性徴が早まる「発達加速現象」が見られることが見出された。  

 心の発達のグランドセオリーとしてフロイトの口唇期・肛門期・男根期・潜伏期・性器期と言う快楽原則の変化の指摘を継承したエリクソンは、人生を8つのライフステージに分け、例えばキャッテルとホーンのように知能を「流動性知能」と「結晶性知能」に分け、その発達の様相はまるで違うことが明らかにされ、バルテスと言う心理学者が年老いてもなお維持される「知恵」について考察を深めるなど、従来の「老化」と言う考え方の心理学における再考により、「加齢(エイジング)」と言う考え方を基本とした「生涯発達心理学」と言う新たな心理学が誕生し、盛んに研究されているのが現状である。  

 いずれにしても、冒頭に指摘したように、発達心理学は「経験と学習の存在としての人間」を捉えようとする考え方が主流であることに変わりはない。