講座 心理学概論 9 発達心理学 14 適応の問題

 我々は様々な社会でうまくやっていかないといけない。そうでなければ自傷他害の恐れのある心の収拾がつかない人間に転落してしまうこともある。  

 この「うまくやっていくこと」を心理学では「適応」と呼んでいるが、この節では「一体、適応とは何なのか」と言う問題について考えてみたい。  

 結果的に社会でハッピーになることが「適応」であるとするならば、それはきわめて一面的なものの見方に過ぎない。  

 「適応」を考えるときに、ある高名な心理学者は、適応の概念を「船にスクリューがアジャスト(適応)する」と言ったようにきわめて無機的な「適応」観を述べていたことを思い出すのであるが、人間は機械ではないので、このような見方には筆者正直言って違和感を覚える。  

 端的な例として、心理学で言ういわゆる「適性処遇交互作用」と言う現象を見てみよう。  

 社交性の高い学生と低い学生に一方的なコンピューター授業と教室の講義のいずれかをそれぞれ同数ずつ受けてもらった。すると、平均点はどちらの学生も大差は付かなかったが、面白い現象がみられた。  

 社交性の高い学生の講義でのテスト結果は有意に高く、低い学生ではその逆、つまりコンピューター授業の方が有意に高かったのである。  

 心理学ではこのような何らかの心理的特性が受けるべき適切な処遇を決める現象のことを「適性処遇交互作用」と呼んでおり、たとえば男児の方が喧嘩に強く、女児の方がひと付き合いがうまい、などの知見が見出されている。  

 要するに、人間と言うのは何か課題を課せられると、ひとがらによって得意分野と不得意分野があると言うことである。  

 もしこのような意味で、そのひとの性格に合った課題の性質なり環境と言うものがあるのだとしたら、それはそのひとの「適応」の鍵になるとお考えになる読者も多いことであろう。  

 しかしそもそも、現代のようにひとが作った課題をこなす世の中であって、ある課題にあるひとが得意を感じたとしても、それは本来の意味での「適応」と呼べるのであろうか。  

 人間のできること考えることのわずかな一断片を我々はそこに見ているだけで、そのひとの本当の存在性について「適応」と言うことを考えた時には、ただ単に「うまくやっていけること」と言う近視眼的な定義をすると、人間を箱詰めにしようとしているだけの人間の本来の幸せとは程遠い考えに陥っていくだけなのではないだろうか。つまり、「適応」と言う考え方は人間の一部の切り売りを見ているだけで、人間を全体として見るのには何の役にも立たない概念ではないか、と。  

 有名な心理学者のマズローは、人間の本来あるべき姿を「自己実現したひと」だと言い、ロジャーズは、「十分に機能する人間」だと言った。それらは確かに、「うまくやっていく」ことを「適応」だと考えるよりは良く考えられた人間観ではあるだろう。  

 しかしその根底には西洋流の徹底した合理主義が潜んでいて、そう言う思想に染まっていないとそれらの考えも出てはこないと言うことを読者の皆さんには真剣に受け止めていただきたいのである。  

 筆者にはものごとに成果を認めることに価値を見出す価値観には正直言ってきわめて人間らしくない定規的なものの考えのように思える。乞食には乞食のレゾンデートル(存在意義)があり、障害者にも、その他すべての人間にもレゾンデートルがあると思う。ひとによっては「何も生み出さない」ような「乞食」のようなひとびとにはレゾンデートルなどない、と思われるかも知れない。  

 しかし、よく頭の悪い筆者は思うのである。筆者の考え過ぎの部分も多々あるとは思うが、乞食のようにひとびとが捨てた残飯を食べ、特段の「文明」と言う名の自然の犠牲の上に立つ世の中にもしかしたら彼らがそのようなわけで現代の価値観よりは縄文時代の日本人のものの感じ方に近く、彼らがその中に身を置くことを悲しむ心優しいひとびとだったと想像したとき、彼らは実は優れて人間的ではないのか、と。  

 それは乞食に限ったことではなく、人間がただ才気あるいは素養に任せて世の中を作っていくと、卑弥呼の「魔鏡現象」ではないが、人間は「価値のあるものだけが必要」と言う自分の本当の身の丈を弁えず恐ろしく自然における人間の分を弁えない歪んだ人間観や人生観を持つにいたり、人間を心ではなく「○○に優れている」と言う観点だけで見るきわめて一面的な見方でしかひとを見られないおかしな心の人間で溢れかえってしまうのではないか、と真剣に憂慮する。  

 人間は多面的な存在である。どんな人間にもレゾンデートルがあり、光るべきものそうでないものがあることを弁えながら人間を見られるひとになりたいものである。読者の皆さんには、本当の意味での「適応」について真面目に考えていただきたいし、「これが日本流の適応概念」だと言う合理主義を見直すきっかけを社会問題の中に見ていただきたいと願うものである。

 結局、「適応」とは、「その環境が自分にとって普通になること」を言うのではないだろうか。だからそれだけでは論じきれない心理的問題が百出してくるのではないだろうか。

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