講座 心理学概論 10 社会心理学 1 序説

 読者の皆さんの中には「社会心理学」と言う学問領域があることを知っている方もいれば、知らなかったと言う方もいることと思う。  

 そこで、まず、「社会心理学」と言う学問がどう言う学問なのかについてガイダンスを行っておこうと思う。  

 学問と言うものには、「卵が先か鶏が先か」と言う問題が常に付きまとう。  

 たとえば哲学を例に取ると、現在の定説ではギリシアのミレトスのタレスが「アルケー(万物の根元)は水である」とか「私の説を諸君は批判的に考えてほしい」とか言ったと言うことで今でこそ哲学の創始者だと考えられているが、おそらくタレスに言わせれば、そんなこと毛頭考えていなかった、と言うことになるだろう。  

 学問の定義を「卵」と考え、問題意識や実際を「鶏」と考えるならば、タレスの例は、「鶏が先」の好例である。後々の学者なりがそのような問題提起を初めてした、と後追い的に認定されたので、そう言うことになったのだと言える。  

 社会学など僅かの例外を除いて、ほとんどの学問はこのタイプの学問であるが、心理学全体にしてもそれが言える。と言うのは、心理学の対象である「心」の意味についてはどんな学者であろうと素人であろうと分かっているのに、いざ「心とは何か」と問われると、未だに誰も答えられないのが実情である。筆者も「思いと知覚の移ろいの座」あるいは「思いと知覚の構造」ぐらいの貧弱な答えにもならない答えしか出せない。  

 しかし、我が国には、学問を定礎してからでないと実地に入ることはできない、と言う学者もいる。筆者が大学時代の講義「社会心理学」を担当された故・安倍淳吉がまさにそうであった。  

 彼によると、「社会心理学とは Man to Man to Thing の科学である」と言う。訳せば、「事を介しての対人性の科学」だと言うことになる。筆者は彼の講義での評価は「可」であった。そして、何の因果か彼の学派の先生の講義の僕に対する評価もすべて「可」であった。彼らから見ると勉強嫌いの僕はあまり理解力のない学生だと見られていたのだろう、と察している。しかし不思議なことに、彼の定義からは出てこないような群集心理とか公衆の定義とかよくアメリカで起きる暴動などの乱衆などの話で彼の講義は始まった。その他彼の定義では射程に含まれない社会心理学的問題として「印象」の問題も存在する。  

 いま改めて僕に「社会心理学とはどう言う学問か」と訊かれれば、僕は社会心理学で最も隆盛を誇ったアメリカの社会心理学を見て総覧的に定義する「鶏が先」派である。  

 頭脳が安倍先生に比べれば1万分の1もない怠け者の筆者が言うことなので、頼りないと思われる方は筆者がこれから言うことは無視して彼のご著書を図書館ででも読んでみてほしい。  

 さて、筆者は「総覧型」の学問の位置づけを考える後追い型の人間なので、どのように「社会心理学」を考えているかを述べてみたい。  

 筆者なりにアメリカの現実の社会心理学をオーバービューすると、「社会心理学」と言うのは一言で言うと、「社会構制による心の変化の学問」と結論付けられる。  

 デマにせよ、アメリカ大統領選にせよ、「冷淡な傍観者」にせよ、家族の病理にせよ、いじめ問題にせよ、心が何らかの社会に置かれていることによって時に的確に、時に歪んで変化すると言う事象を捉え、社会を作っていること特有の人間の心への変化の機制を持つこと、そしてそれによる変化の本質についての議論がアメリカの社会心理学ではこれまで行われてきた、と見るのが筆者のスタンスである。「国」があって為政者と国民があり、「選挙」があって候補者と有権者があり、「家族」があって親なり兄弟なりがあり、「学校」があって教師と生徒がいて、「会社」があって上司なり同僚がいる。  

 したがって、筆者がこれから書いていく社会心理学の内容は、安倍先生のように主体性を押し出して、と言うより従来の流儀に則って書かれるスタンダードなものになることをここに予告しておきたい。  

 まず、なぜ人間が社会を形成するのか、について考察し、社会にはどのような種別のものがあるのかについて指摘し、特定の社会の下に人間がいることによってどのような問題や影響があるのかを概観し、どんな法則や効果がそこに認められるのかについて社会と個人の結びつきの強弱の観点から陳述し、適宜社会問題への社会心理学からの提言なりヒントなりを与えていくスタイルを取りたい。  

 それでは、次節から具体的に社会心理学の世界を見ていくことにしよう。

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