この節では主に幼稚園期・学童期の子どもの心理的発達について述べる。
子どもの自己像と言うのは、バンデューラが示した「観察学習」のような要因が強く働いて、他人が自分にどんな認識を抱いているかについての興味から自己像を形作る「鏡映的自己」と言うクーリーの主張したようなもののように見える。だがこれは自己像の形成過程についてのアイディアであり、自己像の中身までは語らない。
ミードは、この「鏡映的自己」の中身は、社会的相互作用の結果であり「役割取得」であると言っている。これについてもう少し思考を進めたサリヴァンは、このような自己像はミードのような「一般化された他者」によるのではなく、母親のような「重要な他者」によってもたらされると考えた。母親が是認する行動については「よい私」、禁止する行動には「悪い私」と言う概念がもたらされ、これが後々の道徳的自己になっていくと言う。この考えを聞いて、自我と言うものは親の規範である「超自我」を欲望の源泉である「イド」との調整役として発達すると考えたフロイト理論を思い出す方も多いことであろう。
少し筆者の主体的な考えを述べると、学童期の子どもは「重要な他者」がサリヴァンの言うような母親のみならず、クラスメイトのような同年代の子どもたちでもあり得るように思われる。と言うのは、家庭を離れた学級場面では、子どもたち自身から自生する規範があるように思われるからである。たとえば、子どもと言うのは学校のトイレで大便をする子どもをからかったり馬鹿にしたりする。これがなぜそうなのかについて考えてみると、子どもと言うのは大人以上に民俗学の柳田国男が指摘しているような「ハレとケ」に敏感で、「ハレ」の場である学校で「ケ」である大便をするとそれが恥ずべき行為だとされ、そうなるようになるからであると考えられるからである。
さて、幼稚園の組や小学校の学級場面などにおいて子どもが何をいつ学ぶべきかをピアジェ理論は示したとすでに述べたが、彼のような「シェマ」から子どもの認識を考えるのではなく、「素朴理論」と言う概念発達の過程から子どもの認知発達を考える研究者も多い。ここでは、その代表的なケアリーの研究を紹介することとしたい。
彼女は4歳から10歳までの子どもの世界観を「素朴理論」と呼び、はじめのうちは生気論的に世界を捉えている子どもが学校教育や大人の概念などから学ぶにつれてより常識的な世界観に変わってゆくことを見出した。そうした概念的変化が連続的に起こるのか不連続的に起こるのかは議論の尽きないところではあるが、ケアリーは科学哲学で言う「共約不可能性(ある範型では捉えきれないこと)」のような問題に子どもが直面することによっていわゆる「パラダイムシフト」のような不連続的な概念的変化を遂げると考えている。これはピアジェ理論における「シェマの同化と調節、均衡化」と言う考えよりもはるかにスケールの大きな考え方である。ただ、未開民族の人間認識と言うものを考えると、ただ漫然と時が経過すればそうした概念的変化が起こるのかどうかについてはフィールドワークが必要になってくるだろう。
子どもの社会化は、家庭と学校と言うブロンフェンブレンナーの言う「メゾシステム」の両者およびそれらの相互作用の中で展開していく。そこで重要な役割を果たすのが、先にも触れたプレマックの「心の理論」である。ひとがどんな状況にあってどんな心理的動きがあるのかについて子どもなりの推測がないと、人間関係自体が機能不全に陥ってしまう。「心の理論」は、人間が社会化するうえで適応の成功と失敗に大きなカギを握っている。
要するに、社会化の過程で素朴理論は洗練されたものになってゆくのだろう、と言うことである。