先述した「ジェームズ=ランゲ説」と「キャノン=バード説」の論争の中で、ひときわ注目を集めた心理学説がある。それは、「シャクター=シンガー説」と呼ばれる理論である。ここでは、この理論を巡って考察を進めたい。
ここでは、理論の説明の便のため、単なる心理的反応をも含んで用いられる「感情」と言う用語ではなくて、生理的反応を随伴する「情動」と言う概念から人間の心理機序を考えることにする。
「情動」は、意図的な中枢神経系の反応であるとともに、無意図的な自律神経系の反応でもある。例えば全力疾走した後、「疲れた」と言う意識上の認識を伴いつつも心拍数が上がるなどの反応がある。他にも、「僕と結婚してください」とプロポーズする男性は、「勇気を出し」ながら顔を真っ赤にすることだろう。このように、「情動」には、中枢・自律両神経系の働きが見られる。
このような事実をどのように説明すべきかを巡って、1964年にシャクターとシンガーは「情動2要因論」と言う考え方を示した。
具体的には、実験的に被験者にアドレナリンを注射し、覚醒状態にした。このときに、被験者らはいくつかの違った状況に置かれるように彼らは実験的に手配した。すると、被験者たちはその状況にふさわしい質の情動を体験した。お化け屋敷に置かれた被験者は何もしていないのに恐怖を感じ、ロマンチックな場面に置かれた被験者は何もしていないのに愛を感じた。
この事実を踏まえてシャクターとシンガーは「情動」の規定因は2つあると考えた。ひとつは「覚醒(arousal)」と言う中立的な生理的状態であり、もうひとつは「ラベル付け(labeling)」である。つまり、情動というのは、もともとはどのような情動としても体験できる「生理的覚醒」があるのだが、それが生じた状況の認知、すなわちラベル付けによって情動の性質が決定づけられる、と彼らは説明した訳である。
この理論を支持すると思われる有名な心理学実験に、「吊り橋実験」がある。1974年にダットンとアロンは、吊り橋を渡る男性と石橋を渡る男性の双方に橋の途中で魅力的な女性にインタービューをさせ、女性が「このアンケートについてもっと知りたいのでしたら、こちらに電話してください」と言って電話番号の書かれたメモを男性に渡した。
結果はドラスティックなものだった。吊り橋の途中でメモを渡された男性からは、ほとんど後日電話があった。だが、石橋を渡っていた男性からきた電話は被験者の1割にも満たなかった。シャクターとシンガーの説明通り、吊り橋を渡るときのスリルが、魅力的な女性の登場によって「好意」になったのだ。
この事実は、お互いをよく知らない男女がお化け屋敷に一緒に行くとか、ジェットコースターに一緒に乗るとかすれば、それがもしかしたら「愛」に変わる可能性を示唆している。
しかし、読者は調子に乗らないでいただきたい。近年、この理論には限界があることが示されている。賢明な方なら、心理学の知識を使って上手く自分をアピールすることより、イノセントに正攻法で人付き合いするのがエチケットと言うものだろう。