講座 心理学概論 8 感情心理学 7 感情と適応

 「人間は社会的動物である」とよく言われる。人間に限らず、社会を持つ動物には必ず感情がある。それゆえ、多くの研究者が感情とは社会生活を営む上での対人関係の調整機能である、と考えている。しかし、ここでは敢えて異なるアプローチで感情を考えてみたいと思う。  

 ここでは、喜怒哀楽をはじめとする感情が、人間の生存や社会的活動にとってどんな適応的意味があるのかについて考えたい。  

 喜怒哀楽と言っても、具体的には様々な感情がある。「喜」には達成感、成功感や幸福感などがあるだろうし、「怒」にはかんしゃく、不正義への抗議や課題を達成できていないことへの苛立ちなどがあるだろうし、「哀」には孤独感、嫉妬、恥、不幸への同情や悲惨な状況への悲しみなどがあるだろうし、「楽」にはリラックス感、快感、心地よさや余裕感などがあるだろう。  

 しかし、先人たちはそれらをまとめて「喜怒哀楽」と表現するようになった。それがなぜなのかを心理学的に考えると、ズバリ「適応」と言う物差しで感情と言うものを考えているからだ、と言う結論に達する。  

 「適応」とは何かと言うと、「環境の中でうまくやっていくこと」と定義できる。特に人間の場合、「社会の中でうまくやっていくこと」と言う意味合いが強くなる。現実に社会心理学者に「適応とは何ですか?」と質問すれば、恐らくそう言った趣旨の答えが返ってくることであろう。  

 ダーウィンは、人間の感情と言うものを、「適応」と言う文脈の中で捉えた初めての人である。彼の1872年の「ヒトと動物の表情」と言う論文で、彼はこの問題について論じている。  

 人間は社会的存在として産まれ落ちた時にすでにいくつのかの感情を持ち合わせている。もし乳児に感情がなかったら、欲求を他者に発信できず、したがって生存を続けることはできない。成長するにつれて、感情は分化し、複合化していく。特に感情の複合(たとえば虚無感と理想が複合して「羨望的不保持感」になるように)は、我々が心理学徒であろうとなかろうとよく使う「コンプレックス」と言う言葉で馴染みが深いであろう。  

 確かに、(「社会心理学」の章で触れるように)フレンチとレイヴンが指摘しているように、社会的勢力が多数派か孤立かでは感情の受け取り方は異なるし、この後の節で述べるように状況認知が感情の主観的性質を変えてしまうことは、前提として覚えておかなければならないが、それを取り敢えず脇に置いておくとすれば、人間の感情は、行動論的見地から見ると、理解しやすいのかも知れない。つまり、行動の促進と抑制を制御するのが感情だと言う認識のしかたである。この意味で言うと、2つの軸で感情を考えることができる。1つの軸は「行動の促進か抑制か」というものであり、もう1つの軸は「誰の行動を促進ないし抑制しようとするのか、自分か他者か」と言うものである。  

 上記のような見地から見ると、「喜」は、例えばバレンタインデーにチョコを贈ったらホワイトデーにお返しをもらったと言うように「他者の行動を促進する」機能を持つと同時に「自分の喜べる自分の社会的行動を促進する」ものであり、「怒」は場違いな発言をしたら相手にされなくなったと言うように「他者の行動を抑制する」ものであり、「哀」は葬式に自由な服装で出席しないと言うように「自分の行動を抑制する」ものであり、「楽」は風呂上がりが気持ちいいので毎日風呂に入るようになったと言うように「自分の行動を促進する」ものだと言って良いであろう。その目的は、もちろん人間が社会で「うまくやっていく」ためである。そのような学習を促進する内的メカニズムのことを感情と考えることができるだろう。  

 この節の結びとして、このような見地から感情を考えた場合、「愛」、「恥」、「軽蔑」はどのような位置づけになるのかを読者諸氏には演習として課すので考えられたい。

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