講座 心理学概論 8 感情心理学 4 二次的欲求

 前節で「生理学的基盤を持つ欲求」のことを一次的欲求と呼ぶことを学んだと思うが、社会的存在としての人間が社会にその存在位置を占め、それを維持するか、あるいはさらに高めていこうとするとき、人間はその方法としての「学習された欲求」を抱くのが通例ではないだろうか。たとえば、自分が医者になりたいと思っても、直接医学を学ぶのではなく、医学部に入学できるためにセンター試験の5教科7科目を高校時代に学び、直接医学とは関係ないような教科の学習を余儀なくされるのが、現在の我が国での試験制度である。  

 さらに、たとい医学部に入っても自分が専門にしたい分野だけでなく、医学一般についての知識教育が行われ、それが医師国家試験で出題される仕組みになっており、受験のための勉強がここでも要求されるのである。つまり、自分が医業で存在価値を持つためには、言い方は悪いが「不要な知識」の勉強を再三要求されるのである。  

 このように、「何かを得るために、文化が要求する方法を学習する際の、その方法に対する欲求」のことを「二次的欲求」と呼ぶ。  

 だが、受験勉強で、やりたいこととは直接関係ない科目を学習することは、なかなか「やる気」も起きないものであろう。それをやる気にさせるのが、現代の教師に求められることであり、この問題をビジネスとして解決してくれるのが受験産業であろう。かくして獲得された「勉強一般へのモチベーション」は、立派な二次的欲求である。  

 一次的欲求の節で触れたとおり、人間の一次的欲求を満足させる方法は文化固有のルールによって統制されている場合がほとんどである。尿意・便意を催したらそこでするのではなく、トイレに行って用を足すことに見るように「トイレに行きたい」と思うのは、文化固有の方法の学習に由来する二次的欲求として現れる。  

 二次的欲求の成立機序は、条件付けや観察学習など、一括りにして言えば「学習」に求められる。  その最たるものは「お金」ではないだろうか。「お金」とは、権力による汎用信用担保債権、分かりやすく言えば「国家が保証するありがたみの指標(サンクスメーター)」のことである。有名な「金色夜叉」の中には「ダイヤモンドに目がくらみ」と言う台詞があり、それが有名であるが、原作ではそれは「お金」だと書き記されている。  

 幼少期を貧乏で過ごした世代の方々は、筆者より歳が二回り上の世代だと思うが、貧乏がいかに辛いことであるかを知っているだけに、筆者のような一般論に反発を覚えられることも自然なことであろう。未だに多くの発展途上国では、子どもの人身売買が横行していて、懸念の声が聞かれるが、貧困の根絶は容易なことではなく、教育の重要性も叫ばれている。  

 既に鬼籍に入った筆者の祖父は、尋常小学校時代、後に京大名誉教授になり文化勲章までもらった人物と学校で成績の一番二番を競っていたそうだが、いつも明治から大正、昭和、平成と生きた人生を振り返って、途上国の教育の充実の重要性を事あるごとに説いていた。筆者も確かにそう思うが、問題は教育の中身だと痛切に思っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です