我々は、自分の認知、たとえば「この項目はこうやって記憶しよう」とか、「この問題の解決は近い」とか、「単語の意味を知らないことが分かっているので、辞書で調べよう」などと認知を制御したり、モニターしたりすることも多いのではないだろうか。このように、自分の認知を認知することを「メタ認知」と言う。
認知心理学では一般にメタ認知を2種類に大別して考えることが多い。1つは「メタ認知的知識」であり、もう1つは「メタ認知的活動」である。
メタ認知的知識とは、自分や人間一般の認知の特性についての知識である。「自分は数学の証明問題が苦手だ」とか「自分は現代文の解釈が得意だ」とか「分からない問題があったら参考書を見る」とか「おそらく多くのひとは1度に2つのメッセージを理解するのは困難だろう」とか「歳を取れば物忘れが多くなるだろう」とか「受験に失敗したら予備校に通おう」など、自分や人間の認知の性質について持っている知識がメタ認知的知識である。
メタ認知的活動とは、自分がいま取り組んでいる認知的課題の実行にかんする認知の働きのことを言う。これはさらに2つに分けて考えるのが普通である。1つは「モニタリング」、もう1つは「コントロール」である。
モニタリングとは自分の認知的課題の遂行上の具体的状況をメタレベルの認知が受容することである。簡単に言えば、「認知の監視」である。冒頭に触れた「この問題の解決は近い」をはじめとして、「今自分は暗礁に乗り上げている」とか「この問題は分からない」とか「この課題はたやすく解けるだろう」など、まさにいま直面している課題についての自分の認知の適応性についての認知である。
コントロールとは、認知の仕方を意図的に決定していく働きのことを言う。具体的には、目標設定、計画、方略の修正などが挙げられる。目標設定とは、「今週中にこの課題を終わらせよう」とか「ピアノの譜面を見ないで弾けるようにしよう」などであり、計画とは、「たやすい問題から解いていこう」とか「配点の高い問題から解いていこう」などであり、計画の修正とは、「丸暗記は難しかったから語呂合わせで覚えるように変更しよう」とか、「まともな計算式からこの三角形の面積を出すことは困難だったのでヘロンの公式で面積を出そう」などである。
日本の教育は「知識偏重」だと教育評論家らによって指摘されることが多い。教育が担うべきひとつの役割は、自分の持っている情報をどの課題のどの段階でどのように活かすのか、その術を身につけさせることではないだろうか。柔軟な課題解決方略の教育は、いまの日本ではお世辞にも充実しているとは言えない。最適なメタ認知を常に活用できる人材が国際化の進む現状には最も必要なことではないだろうか。
最後に、近年の認知心理学ブームについて触れて、この章の締めくくりとしたい。
これまでの行動主義では、人間理解に限界があることを1960年代になって痛感する研究者が増えてきた。従来の心理学から見ても、動機づけ、記憶、思考、問題解決、パーソナリティなど様々な分野で人間の内部を仮定しないで説明できる行動現象は少ないことが指摘され始めていた。それを最も先鋭化させたのは、アメリカ心理学会会長アーネスト・ヒルガードの会長就任演説やナイサーの「認知心理学」の出版であった。特に認知心理学は行動主義の中のハルとトールマンの対立が元となってトールマンの主張をナイサーが発展させる形で生まれた。アメリカでナイサーの著書が広がりを見せ始め、それまでの行動主義者たちも人間の内部の仮定を徐々に認め始めた。その波は海外に及び、我が国でも「認知革命」と呼ばれる運動がたちどころに広がった。これは、心理学が公式に心の存在を認めたに等しい。極めて皮肉なことであるが、ワトソンが行動主義を宣言してから50年近くになって「心ある心理学(心なき心理学のことをドイツ人たちは”Psychologie ohne Seele”と言って嘆いていた)」が誕生したのである。