我々の視線は常に動いている。起床と就寝、運動などの際には視線が大きく変化する。だが我々はそれは自分が動いたせいであって、世界が動いたせいではないことが分かる。視覚入力と脳内処理は一体どうなっているのであろうか。
もし仮に、我々の眼球入力信号だけで我々が世界を知覚しているのだとすれば、眼鏡にくくりつけたビデオカメラの映像に等しい世界を見ていることになる。それは目まぐるしく変化し続ける動揺を伴う世界であって、我々の日常の知覚印象とは大きく異なる世界を見ていることになる。我々の現実の知覚は、それより遙かに安定している。なぜであろうか。
ひとつには運動由来の視覚情報を運動を斟酌することによって世界の安定性を確保している、と言うことができる。運動情報と視覚情報の統合によって視野の安定を得ていると言うことができる。たとえば、関節角度の変化を視野の変化に対応させ、脳内で計算メカニズムが発動し、世界が動いたのは、関節が曲がったためであって、世界が動いたためではないと推論することができる。この処理は知覚の早い段階から始まっていて、背側路に運動を好む細胞の存在が知られている。
けれども、それだけでは充分ではない。もし上記のような処理しか働かないとすれば、我々の知覚はきわめてエゴセントリックなものになり、環境に適応することは難しいことだろう。
では、どんな処理が必要だろうか。
もし、頭部中心の座標系によって自己記述しているとするならば、我々は地図を見て目的地に到着することはできないだろう。現実の我々は、地誌的情報、すなわち東西南北や標高などの情報をもとに目的地までたどり着くことができる。それは我々が環境中心座標系を頭で計算して、その中に自己を位置づけることができるためである。これが可能となるためには、慣熟が必要である。以前も触れたことだが、初めて行った町並みを自由に往来する事は難しい。それは「勝手が分からない」ためである。そのため初めて行ったときと町並みに慣熟したときに見る風景はきわめて異質なものに我々の目には映る。
ラットの学習実験を通してトールマンはラットの頭脳に「認知地図」が試行を繰り返すうちにできてくると主張した。これは我々の町並み体験にも当てはまる考え方であるように思われる。すなわち、ラットもヒトも環境への慣熟を通して、エゴセントリックな座標系から環境中心座標系を学習し、その体験空間内に自己を確定することを覚えるのである。
我々はこのような慣熟処理によって、環境情報を学習し、環境への適応を図っていると考えると、はじめて視野の安定がいかにして可能になっているかを理解することができ、未知な場所の慣熟処理の具体的な分析が可能となるスタートラインに立つことができるのである。