講座 心理学概論 6 知覚心理学 10 近刺激と遠刺激

 「鳩山さん」と誰かが呼んでいるのを、「里山さぁ」と聞き違えるようなミステイクは誰もが日常的に経験するところであろう。このときの他人の呼びかけのことを「遠刺激」、本人の鼓膜の振動のことを「近刺激」という(視覚ならば見られる物体のことを遠刺激、その網膜像のことを近刺激という)。  

 これらの関係は一意には決まらない。状況や位置によって変化する。たとえば錯視図形を見るとき、それ以前に何を見ていたかによって、見え方が変わってくる。  

 特に視覚においては、2次元の網膜像から3次元の世界を復元しなくてはならず、そこには網膜像からまとまりを持った対象を統合(知覚の体制化)し、大きさ・色・形といった特性を再構成(知覚の恒常性)し、欠けている部分を補い(知覚的補完)と言った過程が存在するのではなくてはならず、そうでなくては環境に適応することはできないであろう。  

 同一の遠刺激から多様な近刺激を生ずることも、異なる遠刺激から同一の近刺激を得ることもあり得る。初めて見る風景と見慣れた風景では見え方が異なるように、たとい同一の風景でも、近刺激は違ってくる。  

 哲学的に考えると、そもそも「近刺激」とか「遠刺激」と言う概念は、廣松が批判する「カメラモデルの世界観」の立場に立つものである。廣松は、「近刺激」も「遠刺激」も否定する。彼の主張は、関係主義的世界観で、何かが見えるのは、そこに何かがあるからではなくして、「それと関係」しているからだという。彼のたとえを引用すれば、一塁ベースと二塁ベースの間を打球が抜けていくのを見ている人は、打球が抜けていくのを網膜にではなく、そこに見る。さらに廣松は言う、「何らかの神経的変化はあるだろうが、それが見え方を決めているわけではない」と。  

 しかし、最近の脳神経的研究の成果によれば、脳の血流を感知するセンサーで、ものの見え方が可視化できるようになってきている。これが廣松の言う「何らかの変化」だとしても、「カメラモデルの世界観」からの接近法だと言うことを考え合わせると、事情は単純なものではないことが分かる。  

 もうひとり、廣松のような考え方をする哲学者に、G・ライルがいる。ライルはその著「心の概念」の中で「機械の中の幽霊のドグマ」と言う「心が体に宿る」と言う考え方を痛烈に批判している。  

 いずれの考え方が実り多いかという観点からして、原理と実用の狭間で議論を戦わせてゆくことは、今後ますます重要になってくると考えられる。

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