心身問題

 
 車がクラッシュするのは物理的には秩序であるが、交通整理の観点では秩序ではない。そこには「二重の秩序」が存在する。いわく「物理レベル」、「生存レベル」。

 ものの存在はものとしては秩序だが、その存在が生存にとっては秩序だったり秩序でなかったりする。
 
 それは病と健康の関係のようなものである。
 
 病は、物理現象としては秩序の現れでも、生存の世界と言う観点では秩序の乱れである。要するに、それを生存の観点から見た場合、そこに「からだ」と言うモメントが潜伏している、つまり生存の世界か単なるそれ以外の世界かを区別するだけの観点の違いを「もの」だとか「こころ」だとかで表現しているだけなのではないだろうか。

 ものとこころ、と言う問いそのものも、そう言うことなのだろう。生存の世界、そうでない観点で見た世界、なにかそのようなものがこの問題の本質のようである。もっと明確に言うと、「身体」と言うのは生存の秩序の世界の謂いであり、「心」と言うのは存在の秩序の世界の謂いだと言うことである。

 存在の世界と言う観点からする心というのは秩序に従ったり抗ったりしうるが、そのからだと言うものは生存そのものの秩序にしたがっていないと、失われてしまう。

 したがって、「心身問題」と言うのは、対立観念の問題なのではなく、観点(強調点ないし次元)の相違を表現しただけの問題なのだと思われる、「生存の秩序上の世界」か「ただの存在そのものの秩序上の世界」なのか、と言う。

 強いて言えば、そう強調したくなるほどの広大な地平が「もの」概念にも「こころ」概念にも伴うと言うことだろう。

 また、それらが現象面でかかわり合うこと(転化し合うこと)が魔鏡となって「心身二元論」と言うオカルト的信仰を引き起こしているように見える。現に医学などでは、現象的問題と生存問題を同時に取り扱う必要から、こうした問題については無頓着とも言える態度が散見される。この場合、正しくは「生存(Leben)のあり方と物質(Ding)のあり方はどう関係しているか」と言う問いの立て方を意識しているのでなくてはならない。

 しかしたとえば「機能」と言う観点から現象を見れば、「心」的現象も「身」的現象も認識論上は等価なのである。

 要するに、「心身問題」には、本質的に「生存の世界」か「存在そのものの世界」かと言う観点(ないし次元)の違いが伏在しているに過ぎない。元来、「実践(=生存のためのはたらき)」と「存在」は別々の問題であるが、そのアポリアは、これらを混同するところにその潜淵があると言わねばならない。

 言い換えるなら、この世は生存レベル(身体の維持世界)での秩序と物理レベル(あるがままの事象世界)の秩序が錯綜して存在している、と言うことである。

 もう一歩歩を進めて「物心問題」と言うことになれば、「不可抗力性のある世界(物が与えている側面)」と「必ずしも不可抗力的でない世界(心が与えている側面)」と言う観点の差異を表出するものに過ぎないことは容易に分かるだろう。「不可抗力性」と「心理的変動性」を対比するのは冒頭に述べたのと同様「二重の秩序世界における観点の相違(G・ライルの言葉を借りれば「カテゴリー・ミステイク」※ただし彼自身の言ったのとは違う意味で)」の問題であり、この問題が難しく感じられるのは、人間の知覚が、ただの物質の配列の写しなのではない、と言うところあたりににあるのであろう。

 この問題の濫觴は、人間は、乳幼児の頃は存在と実践(感情的行為)に区別はないが、長ずるにつれその区別ができてくることの表れに見ることができると言えよう。したがって、乳幼児には「心身問題」など存在しない。

 このような問題をより広汎に考えるときには、「そのものごとの不可抗力性はどうか」と「そのものごとは価値を帯びているか」の2点に気をつけて考察するのが良い。「価値」とは、「どれだけありがたいか」の問題である。

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