意味の感度

 「哲学」と言う学範と言うか何と言うかには昔から認識を巡って「経験論(人間の心はすべて経験から作られると言う主張)」と「合理論(経験に先立つ器としての人間、言い換えればそもそも人間は経験を消化する様式を持っているので認識ができると言う主張)」に2分されて考えられてきた。

 しかし、「認識」と言うものは基本的に意味で現象を受け止めるものなので、その種別ごと、ひとそれぞれごとでそれなりの違いがあるだろう、と言う指摘は心理学などではたびたびなされてはきたことである。

 我々は、「学問」と言うぎちぎちの器で認識を考えるつもりはない。

 で、そもそもジョン・ロックの主張した「経験論」においては、人間の認識と言うものは「連合(連み)」から成ると言い、イマニュエル・カントの「合理論」においては人間には「先験的認識」があり、それが認識を可能にしていると言う。

 問題の「連みの認識」については、概ねロックが言うように心理学、就中学習心理学では「連合主義」が支配的であった。

 我々は「学問」と言う狭い器を無視して非常に常識的にこの問題を見ている。

 そもそも人間の認識をそのひとつひとつが「点」であり、理説が「線」であるとすると、どうも「点と点」を結びつける「経験論」なり「合理論」と言う「線」が、連みの認識の問題で引かれるべき「線」とはまったく異次元のお話であるような気がしてならない。

 そこで、我々が「連みの認識」を考えるときには、「意味の感度」と言うワンクッションを入れて考えないと、話がグダグダになってしまうように思っている。

 ひとそれぞれだけではなく、TPOや時代や境遇に応じてひとの「意味の感度」は違い、その違いによってならぬまでも現在の我々の、あるいは社会のあり方が規定されているように感じる。

 でまぁ、そう考えると何が明確になるのかと言うと、赤ちゃんには赤ちゃんなりの「意味の感度」があり、おとなにはおとななりの「意味の感度」はある、つまり、「先天的か後天的か」と言う議論は人間の現実のあり方について何も語らないと言う根本的な誤謬を抱え持っているのではないか、と言うことなのである。

 なお、珍しい、みんなと違う、あるいは印象深い個人的事象のマスコミ・信用筋による伝播は、当該個人の自意識に訴えやすい。ソクラテスでさえそのために多くの有識者の心を傷つけたその行動の元基には、占い師に「ソクラテス以上に賢いひとはいない」と告げられたためであった。この現象を「ソクラテス効果」と呼んでも良いが、それではソクラテスが可哀想なので、「プチ・サリエンシー効果」とでも呼ぼう。発信側がたまたま空想で思い付いたことでも、メディアが一対多である限り必ず誰かは傷つく。そうやって人間の運命は破壊されてゆく。

 今回は、「連みの認識」を考えるときに必要なワンクッションである「個々人の意味の感度」についてお話させていただきました。

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