「生産性の規定因研究」はなぜ不毛に終わったのか

今日は「生産性の規定因研究がなぜ不毛に終わったのか」についてお話させていただきます。

「生産性の規定因」を研究したアメリカのウェスタンエレクトリック社のホーソン工場で1924年から1932年までの8年間にわたって行われた「ホーソン研究」では、メイヨーやレスリスバーガーらの心理学者が労働環境における物理的条件とか人間関係的条件を生産の規定因として仮定してさまざまに条件を変えて生産性との関係を検討しましたが、明確な答えは得られませんでした。

その後、ハーズバーグの「動機付け-衛生要因」理論とかマクレガーの「X理論Y理論」説とかアージリスの「パーソナリティの成熟・未成熟」説が提唱されましたが、決定打にはなり得ませんでした。

それはなぜか、と言うことを僕なりに考えると、心理学者は「心理」に過剰に注目しすぎることが、「社会の中の企業」と言う視点を欠落させていることにつながってしまっているからではないか、と思うのです。

他にもシャインと言う社会心理学者は、人間を「複雑人」と捉えないとこの問題の答えは出ないだろう、と言っています。

しかし、本当にそうなのでしょうか。

環境要因に心理学者が注目するとき、物理的要因とか人間関係的な要因とか人格的要因とか課題達成的要因(課題の面白さなどの誘因はなぜかすっぽり心理学者の目算から抜け落ちている)とか、どうも是が非でも「企業内心理的要因」探しに陥りがちだとは皆さんはお感じにならないでしょうか。

それらは、きわめてミクロな視点に立って「ひとの心」を見ているだけでしょう。結局、「ホーソン研究」以降のハーズバーグにせよマクレガーにせよアージリスにせよ、「人間の心理的成長」と言うこれまた心理学者的な発想しか出てこなかったので、決定打になり得なかったのではないでしょうか。

常識的に考えたら、たとえばアマゾンのコマーシャルのような訴求力のあるコマーシャルの制作者とか、ヒット商品の開発者は、それが社会の財産になっていることを感じるのでますます頑張ろうと思うはずですよね。あるいは「ネームバリューのある企業の一員」であるとか、「良い仕事ができている」とかの理由にしても同じですね。もちろん「賃金」と言う意味も含めて、「何を背負って仕事しているか」の問題も大きいことでしょう。それは「社会の中の企業」と言う発想がありさえすれば誰にでも考えられることだと思うのです。

たとえばストレス研究にしてもそうですね。人間のそう言う面というのはストレス低減にも大きな役割を果たしているはずが、どうしても心理学者のスコープには映らないようです。

要するに、我々が「生産性の規定因研究の不毛性」について考えるとき、結論として「生産性」と言う非常に社会的な問題に対して、どうして心理学者たちは社会、もっと言うと「社会の中の企業」と言う視点を持ち得ないのかと言えば、そもそもの「ホーソン研究」自体からしてが我々の生きている現実社会と言う前提を排除していたからだ、と考えざるを得ません。

「ホーソン研究」の残像が心理学者たちの注目を一定の規定因の想定にしか導かないことが、心理学者たちの視野狭窄を招いているように僕には見えます。

それともうひとつ心理学者たちは見落としていることがあります。それはミクロからマクロに及ぶ責任の問題です。

どんなことでもそうですが、問題を考えるときには「無知は知の扉」であり、無前提の状態から問題を見ていかないことは、問題の本質から我々を遠ざけてしまいます。

我々はくれぐれも「学問馬鹿」にならないように広い了見を持ちたいものです。そして、この「生産性」研究に見るような課題について、本当にその「生産性」が上がることが善なのか、あるいはどのような「生産性」が上がることが善なのか、ある身の丈の一人間としてのモラルの問題も含めて考えなくてはならないことに思いをいたすべきでしょう。

本日は、「生産性研究における心理学者のピットフォール(落とし穴)」について考えてみました。

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